バビロン再訪~バブル時代のマンション物語~2020/7/29

わたしたちはイメージの都市、イメージの街に生きている

 

人は物理的な空間やモノをイメージとして理解する。

 

イメージは決して空間そのもの、モノそのものではない。それは眼がとらえた映像、視覚器官がキャッチした情報そのままでもない。

 

視覚器官がキャッチしたさまざまな情報は、イメージとして脳内に定着する。目の前のトマトからのさまざまな情報、例えば、丸い、赤い、少しいびつな、などは、脳内でトマトというひとつのイメージとなり、それがトマトであると理解される。あるいは、さまざまな情報が、脳内にあるトマトというイメージに照らし合わされて、目の前のそれがトマトであると認識される。理解するとは、イメージ化のことであると言える。

 

イメージ化の作用は、視覚だけに限らず、触覚、聴覚、味覚、嗅覚など五感すべてにおいて起こる。さらに、個人の五感がキャッチした情報以外に、書物などの言葉によっても人のイメージは作られる。

 

イメージは時間と空間を超える。イメージの地平では、現在は過去と等価だ。イメージは個人を超える。イメージの地平は、他者や世界とつながっている。

 

人は言葉を得て時間と空間を超える能力を獲得した。霊長類学者の山極寿一が言っている。言葉によって人間が得たもの。それをイメージ力と呼んでもいいかもしれない。

 

都市や街を物理的な空間としてだけとらえるのは大きな間違いだ。わたしたちは都市や街をイメージとしてとらえ、そのイメージとともに生きている。

 

したがって都市や街は、目の前の物理的な空間やモノであると同時に、過去の記憶のなかの都市や街であり、さらには、言葉によって獲得された都市や街でもある。

 

今はかつてと重なり、ここはどこかとオーバーラップする。慣れ親しんだ今やここは、まったく異なる時空へとつながっている。

 

我善坊の谷、鼠坂、狸穴坂。喧騒の陰の静謐

 

飯倉 ―― 「いいくら」あるいは「いいぐら」 ―― という地名は、今は外苑東通りと交差する2つの交差点、「飯倉片町」と「飯倉」に名を遺すだけだ。

 

かつて飯倉片町や飯倉と呼ばれた場所は、今は麻布台、東麻布など、すっかり由来を喪失した住所となっている。かろうじて残った狸穴と永坂という住所が、住居表示への抵抗運動の成果として、かつての歴史を今に教えている。

 

飯倉は陸の孤島のような場所だ。六本木からは遠く、神谷町からのだらだら坂を登る人はいなかった。北は我善坊の谷に向かって崖が切り立ち 南は古川に向かって植木坂、鼠坂、狸穴坂など、いずれも急な勾配の坂が走る。

 

外苑東通りの北側の切り立った崖下は、我善坊と呼ばれてきた谷(麻布台一丁目)。つい最近まで、周囲の高台エリアの華やかなイメージとは無縁に、ひっそりと人々の日常が息づいていた。アパートがあり、小体なマンションがあり、雑草が生える路地があり、クリーニング屋などがあった。このつましい風情の住宅地は、江戸の警備などの役職を担った御先手組と呼ばれる下級武士が暮らす屋敷まちに由来する。高台の大名屋敷と低地の武士の屋敷。江戸の山の手エリアの都市構造の典型を今に伝える場所だった。

 

■かつての我善坊の住宅地

 

外苑東通りを挟んで我善坊の谷とは反対側の南斜面には、細く急な坂路地が走っている。植木坂と鼠坂は一続きの坂なのだが、場所によって名前が変わるというのが面白い。外苑東通りから下るところでは植木坂と呼ばれ、狸穴の谷底を望む地点あたりから南に下るところでは鼠坂(別名、鼬(イタチ)坂)と呼ばれている。名前のごとく、鼠や鼬一匹が通れるぐらいの細い坂だ。通る人はめったになく、うらぶれて、静かで、こころ安らぐ場所だ。

 

■鼠坂

 

猯とも魔魅と記されるマミと呼ばれたアナグマが住んでいた穴があったことに由来する狸穴の坂(麻布狸穴町)。穴熊といい、狸といい、鼠といい、鼬といい、ここ飯倉には獣たちが生息していた時空の記憶が留め置かれている。今ではすっかり立派なマンションに囲まれてしまっているとはいえ、急な坂と谷の深さはいまだ健在だ。坂の終点近くには、いい感じに古びた木造家屋が残されている。そうした時の贈り物を前に佇むひと時は飯倉散歩の格好の句読点だ。

 

■狸穴坂

 

現在、狸や鼬に代わり出没するのは猫たち。車など通れない細い路地、縦横に走る坂や階段、深い谷など、人を遠ざける複雑に絡み合った地形ゆえか、ここは陰影と孤高を愛する猫たちが安心してたむろできる場所でもある。

 

■植木坂と狸穴の谷を見下ろす階段

 

飯倉。そこは岬のような場所

 

六本木を抜け、東京タワーを正面に見ながら、飯倉の尾根を東に走るのが外苑東通りだ。飯倉片町の交差点を過ぎたあたりから、通りの南側には1階にさまざまな店舗が入った沿道型のマンションが立ち並ぶ。六本木から続く繁華な街並みは一変し、人通りが少ない街のはずれといった趣が色濃い風景へと変わる。通りの北側は外務省飯倉公館、郵政省飯倉分館などの大規模な国家施設で占められ、街はずれと言っても、ここが港区であることを物語っている。

 

右手にロシア大使館の長い長い石積塀が見えてきて、その先にNOAビルの真っ黒な威容が現れ、外苑東通りは左にカーブしながら、旧麻布区と旧芝区の境に位置する飯倉交差点に向かって緩やかに傾斜しながら下ってゆく。

 

視界が広がり、桜田通りが現れ、急に見晴らしが良くなる。左右に走る桜田通りは、飯倉交差点を頂点として、それぞれ左(北)は神谷町の谷、右(南)は古川を渡る赤羽橋方面へとさらに下ってゆく。

 

飯倉交差点以東の土地は、ほとんどが縄文海進期には海だったところだ。その先には今の愛宕山とのちに増上寺境内となった広大な土地が島状の台地として姿を見せていたはずだ。

 

海に突き出た岬のような飯倉の地形を、今なおよく表している場所がある。

 

ロシア大使館脇の道路を南に入り、東麻布二丁目へと急激に落ち込む切り立った崖の突端にある日本経緯度原点である。当時ここにあった帝国大学付属東京天文台に1892年(明治25年)に定められたものだ。天体観測に適する場所として飯倉が選ばれたのは、周りに街灯りが少ない孤立した高台であり、視界が開けていたことがその理由だ。孤高の岬を思わせる飯倉の地形をよく物語っている。

 

■日本経緯度原点(麻布台二丁目)

 

岬のような飯倉の地形を今に伝えるもうひとつの場所が、麻布台一丁目7番と9番の間にある雁木坂だ。東京にある2つの雁木坂のうちのひとつである。雁木とは石を組んだ段々のことで、斜面ではなくて階段になっているのは、高低差が激しく、土地の傾斜が極めて急であることの証だ。今はコンクリートの階段になっているが、両側に桜が咲き誇る雁木坂は、春の風情がひと際である。

 

■雁木坂(麻布台一丁目)

 

どこからも遠く、人通りもまばらな街はずれの場所。静寂さと陰影をたたえた深い谷や切り立った崖や急な坂にまわりを囲まれ、そしてその先にはかつて海が広がっていた。

 

飯倉。岬というイメージの街。

 

そこは70年代から80年代初めにかけて、ファッションの最先端という岬でもあった。

 

(★)参考文献 箭内匡『イメージの人類学』(せりか書房、2018年)

 

<飯倉後編>に続く

 

 

 

大村哲弥 一級建築士/ブロガー

有限会社プロジェ代表:1984年、セゾングループのディベロッパー株式会社西洋環境開発に入社。住宅・マンション事業のマーケティング・商品企画・事業企画に従事する。バブル前夜からバブル崩壊とその後のカルチャーシーンのなかで20歳代、30歳代を過ごし、不動産ビジネスに携わる。1996年、有限会社プロジェ設立。建築・住宅分野のコンサルティング・商品企画・デザイン・執筆などを手がける。東京工業大学大学院修了。一級建築士。

ブロガー:本・映画・音楽・アート・デザイン・ファッション・都市・建築・食・料理・旅・暮らし・まち歩きなどのカルチャーフィールドを横断的に渉猟・論考するブログを主宰。

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