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2024.02.20

北千住駅①歴史編――“奥の細道”へは千住から…23区に残る“宿場町通り”の繁栄と“山手線外側の大ターミナル駅”の発展(東京都足立区/JR常磐線・東武スカイツリーライン・東京メトロ日比谷線・千代田線・つくばエクスプレス線)

北千住駅①歴史編――“奥の細道”へは千住から…23区に残る“宿場町通り”の繁栄と“山手線外側の大ターミナル駅”の発展(東京都足立区/JR常磐線・東武スカイツリーライン・東京メトロ日比谷線・千代田線・つくばエクスプレス線)

 日頃もてはやされる方角といえば勿論“南”で、“北”の方が目立っている街というのはそう多くない。そんな中「北千住」は、東京の数多ある駅の中で最も存在感のある“北”だろう。あまり聞かれなくなったが“東京の北の玄関口”といえば長いこと「上野」であり、石川さゆりの「津軽海峡冬景色」の歌い出し「♪上野発の夜行列車降りた時から 青森駅は雪の中…」というフレーズは、青函連絡船亡きあと30年以上を経てなお日本人の心に刻み込まれ、「上野」を“北の玄関口”として結び付けている。しかしながら、本来の“北の玄関口”こそ「北千住」なのだ。今回は、江戸時代に宿場町として発展し、時代に応じて役割を変えてきた“北の玄関口”「北千住」にスポットを当て、まずは街の歴史を紹介しよう。

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1.北千住の歴史

 “千住”の由来は、新井図書政次(あらいずしょまさつぐ。源氏の家臣)が隅田川で千手観音像を引き上げ(嘉暦2年=1327年)、息子の新井兵部正勝が勝専寺(千住2丁目に現存)に安置したからとか、千葉氏(千葉城を築城した平安時代末期~鎌倉時代前期の武将・千葉常胤が有名)の分家が住んでいたから(葉氏がむ)とか諸説あるものの、定説は得られていないという(足立区および荒川区HPによる)。

▲千住五丁目の安養院。旧日光街道沿いを中心に、北千住にはこうした寺院が多い。奥はトミンタワー千住五丁目(賃貸)。

▲千住五丁目の安養院。旧日光街道沿いを中心に、北千住にはこうした寺院が多い。奥はトミンタワー千住五丁目(賃貸)。

千住大橋の架橋と日光街道千住宿

 千住が“江戸の境目”として意識されるきっかけとなったのは、千住大橋の架橋であろう。江戸時代は防衛のため川の架橋や、崖の切り通しの造成が基本的に認められておらず、京との連絡における最重要街道であった東海道の多摩川(六郷の渡し)、サブルートであった中山道の荒川(戸田の渡し)においても例外ではなく、渡し舟が両岸を結んでいた。中でも大井川(静岡県)では架橋どころか舟の使用すら認められず、川越人足(かわごしにんそく)を雇い、肩車をしてもらうか、輦台(れんだい=神輿のような台を人足が担ぎ、その上に乗る)に乗らなければならなかった。悪天候や増水時には宿で留まらざるを得ず、宿賃も嵩んだ。「箱根八里は馬でも越すが 越すに越されぬ大井川」とは、箱根峠の馬子(まご=荷物持ち)が歌った民謡「箱根馬子唄」の一節であるが、大井川の難所ぶりが窺えよう。このため、庶民の移動においては碓氷峠などの厳しい峠越えが連続するものの、大河川を渡らずに済み、日程が立てやすい中山道がよく利用されていた。江戸時代の川越えは、それほどまでに厳しいものであったのだ。

▲現在の千住大橋。下り線は1927年、関東大震災の復興事業で架けられた歴史ある鉄橋。「橋大」と右書きなのが特徴

▲現在の千住大橋。下り線は1927年、関東大震災の復興事業で架けられた歴史ある鉄橋。「橋大」と右書きなのが特徴

 その点、千住大橋は日光街道、水戸街道という五街道のうちの2つが通り、千葉方面への佐倉街道が分岐していく要衝にあり、更に日光街道からは宇都宮で奥州街道が分岐、水戸街道の先へ浜街道(陸前浜街道)が続いていたことから、多くの街道が一点に重なる、いわばジャンクションであったために例外的に架橋が認められた。徳川家康の江戸入府直後に建設が始まり、完成は文禄3年(1594年)で、江戸幕府による隅田川の架橋第一号となった。以後70年近く隅田川を渡る橋は千住大橋だけだったが、明暦の大火(名歴3年=1657年)で隅田川を渡れず大火に呑まれた町人を多数出してしまい(10万人とも云われる)、老中・酒井忠勝の提言から防災のため方針を転換。以後、両国橋(元佐倉道、寛文元年=1661年)、新大橋(元禄6年=1693年)、永代橋(元禄11年=1698年)の3つが続けて架橋され、これらにより富岡八幡宮周辺など深川方面へ江戸市中が拡大していった。ただ、五街道が直接通り、隅田川の架橋第一号という誉れがあった千住大橋は、江戸市中の橋として日本橋に次いで高い“格”があったと言えよう。

▲旧水戸佐倉道道標(千住五丁目)。旧日光街道(直進)から佐倉街道(右)が千住宿の北方で分岐した。

▲旧水戸佐倉道道標(千住五丁目)。旧日光街道(直進)から佐倉街道(右)が千住宿の北方で分岐した。

 その千住大橋に隣接し、日本橋を出て最初、また日本橋手前最後の宿として繁栄したのが千住宿であった。品川(東海道)、内藤新宿=新宿(甲州街道)、板橋(中山道)と並ぶ“江戸四宿”と称され、いずれも日本橋から二里(約8km)ほどの場所に置かれた。日没以後に歩くことは通常なく、千住宿は主に日本橋を前に日没を迎えた旅人が留まる場であった。また、近郊の農村から作物が隅田川や綾瀬川の舟運で集まり、千住大橋たもとには橋戸河岸(かし=船着場、河港)と“千住青物市場”が設けられ、江戸を前にした物資の集散地でもあった。現在でも千住大橋周辺に“千住橋戸町”の町名が残り、“やっちゃ場”として親しまれた青物市場は“東京都中央卸売市場足立市場”に姿を変え、往時の雰囲気を伝えている。そうしてヒト・モノが集まるからにはカネも集まるわけで、夜の遊び場としても千住はたいそう栄えたそうだ。

▲千住大橋近くの“やっちゃ場南詰”。東京都中央卸売市場足立市場に姿を変え、今なお続いている

▲千住大橋近くの“やっちゃ場南詰”。東京都中央卸売市場足立市場に姿を変え、今なお続いている

本来の千住は北千住?南千住?

 足立郡千住村はそれまでも舟運の要衝ではあったが、五街道の整備、そして文禄3年(1594年)の千住大橋完成以後は江戸の北側の関門として急速に発展を始めた。慶長2年(1597年)には人馬継立場に指定されたことで“千住町”に昇格、寛永2年(1625年)には正式に千住宿として指定された。千住宿は南北に広がっていたが、このうち千住大橋の北側、宿場町として発達する前からの千住町(概ね現在の北千住駅前通り周辺)が“本宿”、千住宿が置かれてから発展した千住大橋すぐ北側(千住橋戸町など)が“新宿”として追加され、最後に千住大橋の南側が“南宿”として追加され、時代と共に南側に拡大していった。いわば、千住宿の拡大によって隅田川南側までもが千住宿に含まれるようになったわけである。

▲旧日光街道に残る“横山家住宅”。江戸時代後期の築造で、伝馬屋敷(馬を用立てた大家)の様式を今に伝える。

▲旧日光街道に残る“横山家住宅”。江戸時代後期の築造で、伝馬屋敷(馬を用立てた大家)の様式を今に伝える。

 千住大橋の北側、本宿・新宿は足立郡、南側の南宿は豊島郡と属する郡も違い、また南宿近くの小塚原村には“鈴ヶ森刑場”(大田区)と並ぶ江戸の二大刑場として有名だった“小塚原刑場”が設けられるなど(現在でも『南千住』駅前に刑場跡の“延命寺首切り地蔵”、最後の別れの場であった“泪橋”が残る)、南北で文化の違いもあった。郡や街の成り立ちの違いは現在に至るまで引き継がれており、本宿・新宿の住所も本宿・新宿が南足立郡千住町→足立区千住一~五丁目/千住仲町・千住河原町・千住橋戸町なのに対し、南側の南宿の住所は北豊島郡南千住町→荒川区南千住一~八丁目と、属する自治体・区が異なる。1889年(明治22年)の町村制施行によって設置されたのが“南足立郡千住町”と“北豊島郡南千住町”といったように、「北千住」と「南千住」の力関係の差は歴然であったと言えよう。

▲「北千住」駅近くの旧日光街道には“宿場町通り”の名が付く。飲食店等が建ち並び、行き交う人は今なお多い

▲「北千住」駅近くの旧日光街道には“宿場町通り”の名が付く。飲食店等が建ち並び、行き交う人は今なお多い

 現在“千住”を冠する駅は3つあり、今回取り上げる「北千住」のほか、隅田川を挟んだ南に「南千住」、そして中間地点に「千住大橋」がある。その中で最も規模が大きいのは「北千住」で、集計方法にもよるが一日127万人が乗降する大ターミナルである。「南千住」に乗り入れる3路線はいずれも「北千住」を通るほか、「千住大橋」は京成線しか通らず孤立している(隣の『京成関屋』で東武線、『町屋』で千代田線と接続することで補完)。特に東武線では一日38.2万人(2022年度)が乗降し、始発駅「浅草」(約3.4万人)をはるかに凌ぐ事実上のターミナルとして機能しており、東京都内で山手線が乗り入れない駅の中では最大のターミナル駅である。このため、単に「千住」と言った時には「北千住」を指すことも多いが、それは江戸時代の“千住宿”においてもそうだったのではないかと思う。

▲京成線「千住大橋」。再開発による利用増により、2010年から快速が停車するようになった。

▲京成線「千住大橋」。再開発による利用増により、2010年から快速が停車するようになった。

“おくのほそ道”はじまりの地

 千住宿としての繁栄を語る上で欠かせないのが、かの有名な松尾芭蕉の「おくのほそ道」である。「月日は百代の過客にして、行きかふ年も又旅人也…」から始まる冒頭を暗記させられた方も多いのではないかと思うが、芭蕉が元禄2年(1689年)5月、江戸・深川の芭蕉庵を出発し、舟で隅田川を遡り、舟を降りて日光街道へと歩き始めたのが、ここ千住大橋である。矢立初め(やたてはじめ=携帯用の毛筆で書き始めること)の句として「行く春や鳥啼き魚の目は涙」(春が過ぎようとしているが、鳥の鳴き声が春との別れを惜しむように聞こえ、魚も泣いているかのようである)と詠んでおり、季節の移ろいを自らの旅に重ね合わせ、長旅に出る芭蕉を見送る江戸の人々との別れを印象付けている。

▲千住大橋北詰に建つ「奥の細道矢立初めの地」の碑。芭蕉はここで舟を降り、半年間に及ぶ紀行に出発した

▲千住大橋北詰に建つ「奥の細道矢立初めの地」の碑。芭蕉はここで舟を降り、半年間に及ぶ紀行に出発した

 旅慣れた芭蕉であれば、深川から千住大橋までのおよそ二里(8km)など舟に乗るまでもなかっただろうが、それでも敢えて舟に乗ったのは、千住大橋が架かり、江戸四宿として大いに賑わった“千住までが江戸”という認識が芭蕉にもあったからこそ、“歩きはじめ”を千住にしたかったからではないだろうか。芭蕉は千住から五日ほどかけて日光に達し、日光からは奥州街道へと入り、いよいよ“みちのく”へと歩んでいく。芭蕉はおよそ半年に及んだ“おくのほそ道”の紀行から5年後、元禄7年(1694年)に50歳でこの世を去るが、10代から句を詠みはじめた芭蕉にとって、45歳の作品である「おくのほそ道」は芭蕉の円熟期と言え、旅先では数々の歓待を受けている。千住で多くの人々から見送りを受けたというエピソードからも、既に名声を得ていたことがよくわかる。

▲おくのほそ道の行程。千住から日光、松島、山寺、平泉、象潟(きさかた)等を経て、大垣(岐阜県)まで巡った

▲おくのほそ道の行程。千住から日光、松島、山寺、平泉、象潟(きさかた)等を経て、大垣(岐阜県)まで巡った

 “おくのほそ道矢立初めの地”として、北千住における芭蕉の存在は今なお大きく、千住大橋たもとの“大橋公園”に大きな句碑が建てられているほか、芭蕉像も足立区立中央図書館“学びピア21”や、旧日光街道千住宿の“千住本町商店街”に面する足立成和信用金庫本店など、北千住の至る所に建てられている。そして現代でも日光を目指す場合、スタートになるのは偶然にも北千住である。東武線特急「スペーシア」が「浅草」を始発とするが、JR常磐線ほか5路線と接続する「北千住」にもすべての特急が停車しターミナルとなっているほか、クルマでも国道4号(日光街道)と高速道路(首都高速中央環状線~東北自動車道)が交差する「千住新橋」は、北へ向かう道路の要衝である。また、東京メトロ日比谷線・千代田線はここ「北千住」から郊外路線へと乗り入れ、東京都心を縦横無尽に走る東京メトロの境となる駅でもある。北千住が“境目”ゆえに人が集まる街ということは、芭蕉の時代から変わらないのだ。

▲千住本町商店街に建つ芭蕉像。至る所に芭蕉像が建ち、行き交う人々を見守っている

▲千住本町商店街に建つ芭蕉像。至る所に芭蕉像が建ち、行き交う人々を見守っている

ターミナル駅「北千住」の拡大と工業地としての発展

 1896年、常磐線(当時は日本鉄道土浦線)の駅として「北千住」は産声を上げた。3年後の1899年、東武線が「北千住」―「久喜」で開業。北関東一円にネットワークを張る東武線はここ「北千住」から路線をどんどん拡張していくが、常磐線のターミナルは「上野」、東武線は「浅草」で、どちらも当時の東京を代表する繁華街であったことから「北千住」で乗り換える人は少なく、地味な駅であった。そのため、当時の「北千住」は東武線と常磐線を行き来する貨物列車の中継地点としての役割が主で、この状態が60年ほど続いた。ただ、江戸時代から変わらず舟運の拠点であり、かつ貨物列車の拠点であったため物資の搬入には大変便利であったことから、宿場町を外れたエリアでは工業地としての発展が始まる。1924年には東武線から分岐する貨物線が隅田川べりまで引き込まれ(1987年まで存続)、隅田川沿いはセメントや皮革などの工場が建ち並ぶようになった。その中でも最大の存在感を持ったものは、千住桜木に位置し“お化け煙突”の名で親しまれた“千住火力発電所”ではないだろうか(1926-1963年)。

▲大きな駅ビル(ルミネ)を併設する「北千住」。山手線に接続しない駅では東京圏最大の利用者数を誇る。

▲大きな駅ビル(ルミネ)を併設する「北千住」。山手線に接続しない駅では東京圏最大の利用者数を誇る。

 「平井」編で詳しく述べたが、現在「北千住」の北側を流れる荒川は東京の洪水防止のために造られた人工河川で、もともと荒川本流は赤羽岩淵から隅田川へ直接流れ込んでいた。1911年から開削がはじまり、1922年には分断される荒川両岸を結ぶため“千住新橋”の建設が始まった。1923年には関東大震災に見舞われ大変な被害が出たものの、千住新橋の建設に合わせて旧宿場町を経由していた日光街道を西側へ移しバイパスとすることとなり、道幅が広くなった新日光街道には都電(路面電車)も千住新橋まで開通した(1928-1968年)。震災復興事業と兼ねた新日光街道の建設と都電の開通は、震災復興を強力に後押しした。これらにより、北側では幅500mもの用地が掘りこまれ「北千住」は現在の島状の地形に変化したほか、江戸期の五街道整備以来賑わいの中心であった旧宿場町が“日光街道”から外れ、大規模工場が次々に建つなど、街の在り方や役割が大きく変化した激動の時期であった。

▲荒川(荒川放水路)を渡る千住新橋。荒川土手はTBSドラマ「3年B組金八先生」のロケ地としても有名だ

▲荒川(荒川放水路)を渡る千住新橋。荒川土手はTBSドラマ「3年B組金八先生」のロケ地としても有名だ

 更に「北千住」の転機となったのは、戦後に都電が地下鉄へと取って代わるなかで、常磐線・東武線とも地下鉄直通運転を始め、その結節点となったことだ。まず「浅草」が終点で山手線と接しておらず、ターミナル立地の不利を抱えていた東武線が、地下鉄日比谷線との直通運転によってこれを挽回すべく、地下鉄・郊外路線直通運転の第一号となった。1962年に日比谷線「人形町」―「北千住」間の開通と共に、東武線「北千住」―「北越谷」間の直通運転を開始し、1964年の東京オリンピックに合わせ「中目黒」まで全線が開通した。これにより「西新井」「竹ノ塚」などの東武線沿線と「上野」「銀座」などの東京都心が乗り換えなしで結ばれるようになり、それまで農村の風景が広がっていた東武線沿線は大規模団地・マンションが急増、「北千住」は乗り換え拠点として機能し始めるようになった。

▲東武線「獨協大学前」は日比谷線直通開始の1962年に「松原団地」駅として開業。草加松原団地は“東洋一のマンモス団地”として有名だった

▲東武線「獨協大学前」は日比谷線直通開始の1962年に「松原団地」駅として開業。草加松原団地は“東洋一のマンモス団地”として有名だった

 1969年には「北千住」2本目の地下鉄として、千代田線「北千住」―「大手町」間が開通、追って1971年には「霞ケ関」―「綾瀬」間の延伸とともに常磐線各駅停車「綾瀬」―「我孫子」間の直通運転を開始、ここでも「北千住」は地下鉄直通となった常磐線各駅停車と、「上野」ターミナルを継続した常磐線快速電車の乗り換え拠点となり、更に2本の地下鉄が交差したことで相互の乗り換えも入り乱れるようになり、駅構内は日本一ともいえる混雑が連日発生することになった。「東武鉄道百年史」によると「北千住駅のラッシュ時の混雑ぶりは際立ったものとして知られ、歴代の運輸大臣が必ず視察に訪れるほど」であったという。このため、東武線・日比谷線のホームが双方とも地上にあったのを、東武線を1階、日比谷線を3階に持ち上げて分離するという大規模工事が行われた(1992-1997年完成)。2005年には「北千住」6番目の鉄道としてつくばエクスプレス「秋葉原」―「つくば」間が開通、ホームがかつての貨物ヤードであった東武線・常磐線の隙間に設けられ、「北千住」は現在の姿となった。

▲東京メトロ千代田線はJR常磐線から「北千住」を経て「大手町」「霞ヶ関」「表参道」など都心へ直結(国会議事堂前)。

▲東京メトロ千代田線はJR常磐線から「北千住」を経て「大手町」「霞ヶ関」「表参道」など都心へ直結(国会議事堂前)。

工場跡地と駅前の再開発で“学生街”の一面も

 こうして大ターミナル駅「北千住」は現在の姿となったわけだが、駅が大きく発展して便利になった反面、隅田川沿いの工場は次第に老朽化が進んだうえ、敷地が手狭となっていたため郊外への移転が相次ぎ、広大な遊休地が生まれていた。また、旧宿場町の商店街はいわゆる“木密”(木造家屋密集地域)で災害のリスクが大きかった上、どこも店舗が老朽化しつつあり、刷新が望まれる状況にあった。その典型と言えるのが“イトーヨーカドー千住店”だろう。イトーヨーカドーは1946年に1号店をここ「北千住」で開店して以来営業を続けてきたが、建物の老朽化を受け2016年に惜しまれつつ閉店している。このように、工業地と商店街でそれぞれ性格は違うものの、同様に再開発が望まれる状況にあった。

▲イトーヨーカドー千住店を再開発して誕生した「パークホームズ北千住アドーア」。引き続き1階にヨークフーズが入居する

▲イトーヨーカドー千住店を再開発して誕生した「パークホームズ北千住アドーア」。引き続き1階にヨークフーズが入居する

 こうして両輪で再開発が進んでゆくわけだが、近年「北千住」に最も大きな変化をもたらしたのは2009年の東京電機大学千住キャンパスの開校であろう。もともと日本専売公社(現・JT=日本たばこ産業)の倉庫・社宅として使われていたが、大ターミナル駅目の前の立地でありながら効率的な利用が図られているとは言い難かった。一方、東京電機大学は1907年の開学以来神田にキャンパスを構えていた(現『KANDA SQUARE、丸ノ内線『淡路町』付近)が、都心部立地ゆえの手狭さと老朽化の問題を抱えていた。そこで2012年に「北千住」へ移転し、駅東口に“電大口”の愛称が付けられた。合わせて、狭かった駅前にバスターミナルと駅前広場が設けられたほか、東口商店街も“学園通り商店街”へ改称。旧宿場町やイトーヨーカドー側の西口に比べ、地味だった東口は一気に“学生街”へと変貌を遂げたのだ。反対の西口側でも、2010年に帝京科学大学千住キャンパスが開校している(千住桜木)。

▲「北千住」駅東口に開校した東京電機大学千住キャンパス。地味だった東口の印象を大きく変えた。

▲「北千住」駅東口に開校した東京電機大学千住キャンパス。地味だった東口の印象を大きく変えた。

 また、駅前や旧宿場町でも再開発が進み、2004年には西口駅前に“北千住マルイ”を核とする再開発ビル“千住ミルディス”が完成し、「北千住」初となるタワーマンション“アトラスタワー北千住”が“千住ミルディス”の一部として誕生したほか、2021年には「北千住」最新(2024年2月現在)のタワーマンション“千住ザ・タワー”が竣工し、マンション界で大きな話題となった。“千住ザ・タワー”の完成を機に旧宿場町の商店街沿いで再開発が徐々に進み、2024年2月現在は“アトラス北千住”が建設中である(2025年竣工予定)。

▲「北千住」最新のタワーマンション「千住ザ・タワー」。千住本町商店街に面し、賑わいの中核に位置する。

▲「北千住」最新のタワーマンション「千住ザ・タワー」。千住本町商店街に面し、賑わいの中核に位置する。

 加えて、それまで工業地であったためマンションが少なかった京成線「千住大橋」付近の工場跡地でも再開発が進み、“オーベルグランディオ千住大橋”(2012年)、“オーベルグランディオ千住大橋エアーズ”(2014年)、“アクアヴィスタ”(2015年)など、複数の大型マンションが誕生している。隣接地には「千住大橋」初となるタワーマンション“シティタワー千住大橋”が建設中であり(2025年竣工予定)、非常に勢いを感じるエリアとなっている。

▲建設中の「シティタワー千住大橋」。「北千住」駅周辺のみならず「千住大橋」にも勢いが及んできている。

▲建設中の「シティタワー千住大橋」。「北千住」駅周辺のみならず「千住大橋」にも勢いが及んできている。

次回予告

 日光街道“千住宿”から工業地、商業地、そして学生街と、時代に応じて様々な役割を担い“東京の境目”であり続けた「北千住」。次回はそんな「北千住」から「千住大橋」まで歩きながら、街のいまと将来を考えてみよう。

▲「北千住」のイメージを変えるきっかけの一つとなった東京藝術大学千住キャンパス。2006年開校と新しい。

▲「北千住」のイメージを変えるきっかけの一つとなった東京藝術大学千住キャンパス。2006年開校と新しい。

▼次回▼北千住駅②未来編――(東京都足立区/JR常磐線・東武スカイツリーライン・東京メトロ日比谷線・千代田線・つくばエクスプレス線) 2024/2/16(金) 10:00 公開予定

※特記以外の画像は2024年1月筆者撮影。マンション図書館内の画像は当社データベース登録のものを使用しています。無断転載を禁じます。

佐伯 知彦

賃貸不動産経営管理士

佐伯 知彦

大学在学中より郊外を中心とする各地を訪ね歩き、地域研究に取り組む。2015年大手賃貸住宅管理会社に入社。以来、住宅業界の調査・分析に従事し、2020年東京カンテイ入社。
趣味は旅行、ご当地百貨店・スーパー・B級グルメ巡り。

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