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更新日:2023.11.17
登録日:2023.11.17
たまプラーザ駅①歴史編――東急の源流・田園都市の集大成…“理想の郊外”が“金妻タウン”になるまで(横浜市青葉区/東急田園都市線)
一度聴いたら忘れられない「たまプラーザ」という名前。東急田園都市線急行で「渋谷」から20分、“多摩プラザ”でも“たまプラザ”でもなく「たまプラーザ」なのである。TBSドラマ“金曜日の妻たちへ”の大ヒットから約40年を経てなお、たまプラーザといえば“金妻”的価値観に彩られた、良質な郊外住宅地としての地位を保っている。今回は、東急多摩田園都市の中心地「たまプラーザ」を歩きながら、変容しつつある“金妻タウン”のいまを考えてみることとしよう。
なお“金曜日の妻たちへ”にまつわるエピソードについては、次回の②にまとめることとしたい。
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1.たまプラーザのあゆみ
石川村から港北区・緑区を経て青葉区へ
現在は横浜市青葉区に属する「たまプラーザ」だが、青葉区成立以前は緑区、さらに緑区成立以前は港北区に属しており、東急田園都市線沿線地域の発展と共に複雑な経緯を辿ってきている。元来「たまプラーザ」周辺は都筑郡(つづき―)石川村と呼ばれ、郡役所(都筑郡の中心)は明治以降「川和町」に置かれていた。石川は川和から7kmほど北に離れ、大山阿夫利神社(伊勢原市)への参詣路かつ東海道の脇往還として整備された大山街道(※)が通ってはいたものの、溝口(みぞのくち)の次は荏田(えだ)まで宿場がなく、特に宿場町があったわけでもなかった。周囲は入り組んだ多摩丘陵の傾斜地が多かったことから、もっぱら柿などの果物栽培が行なわれていた(隣接する川崎市麻生区王禅寺から採った“禅寺丸柿”が知られていた)。1889年(明治22年)の町村制施行に伴い、石川村は荏田村と合併して“山内村”となり、1939年(昭和14年)の第6次横浜市域拡張(埋立以外の市域拡張はこれが最後)に伴い、都筑郡に残っていた町村の殆どが横浜市港北区に編入。以後は横浜市北端を占める一地域となっている。
※…大山街道については本稿「三軒茶屋」編を参照
「たまプラーザ」周辺は1939年の横浜市編入以降も行政区の移り変わりが著しかった。後述する東急多摩田園都市地域内の人口をすべて合わせても1955年で約2万人と少なかったこともあり、当初は港北区にまとめて編入されていた。東急田園都市線開通以降の急激な人口増に対応するため、まず港北区北西部が1969年に緑区として分離、「たまプラーザ」も緑区となった。次いで1994年、緑区・港北区の人口増が著しくなったため、東急田園都市線沿線周辺を“青葉区”、港北ニュータウン周辺を“都筑区”として分離し、「たまプラーザ」は2度目の区名変更となり青葉区となった。青葉区の人口は約309,000人と、港北区(363,000人)に次ぎ横浜市内2番目に多く、また東京都特別区への通勤率は4割近くを数え(区民の4割が東京23区へ通勤する)、この割合は横浜市内で最も高い。横浜市にありながら横浜市中心部の求心力が低く、青葉区民がいかに東急田園都市線でガッチリと東京と結ばれているかがわかるだろう。
▲都筑区として分離された港北ニュータウン。“都筑区”なのに“港北”なのは元々が“港北区”だった所以だ
ただ “東京都心への通勤・通学を前提とした民間企業による開発”に横浜市の税金を投入する――とあっては、当時の横浜市長(飛鳥田一雄)の理解を得られず、学校建設や地下鉄建設(市営地下鉄の接続駅が東急の希望する「たまプラーザ」ではなく建設距離が短くなる「あざみ野」になってしまった)を巡って、対立関係となることもしばしばであった。しかし、現在はインフラ整備が一段落したこと、人口増が鈍化し高齢化が進んでいるという環境の変化を受け、現在は東急と横浜市が包括協定を結び、超高齢化社会や気候変動に対応するモデル地域に指定するといったまでに関係は改善している。
▲ブルーライン開通後(1993)も長年にわたり急行が停車しなかった「あざみ野」。2002年から急行停車駅に
東急多摩田園都市の開発
今ではあまり聞かれなくなった表現ではあるが、東急田園都市線沿線の新興住宅地を総称して“東急多摩田園都市”と呼ぶ。より厳密には、東急田園都市線「梶が谷」―「つきみ野」間の東急自らによる開発・分譲地に限定され、田園都市線開通前から市街地が形成されていた「長津田」と「中央林間」は含まず、また「あざみ野」で接続する横浜市営地下鉄ブルーライン沿線の「センター北」など港北ニュータウンや、「青葉台」からバスで結ばれる若葉台団地も、隣接する新興住宅地であり深い関係にはあるが、こちらも含まない。以降“東急多摩田園都市”と呼ぶ際は、狭義の意味合いで用いることとする。
田園都市(Garden City)
産業革命期のイギリスにおいて提唱された、自立した職住近接型の緑豊かな都市を建設する構想。産業革命により1800年代以降ロンドンをはじめとする都市部は、人口の過密や工場の乱立による公害が深刻化し、住環境の汚染や健康被害が深刻な社会問題となっていた。これを受けて1898年、エベネザー・ハワード(Ebenezer Howard)により“都市と農村の結婚”をスローガンに、都市の経済的利点(規模/集積の経済)と、農村の緑豊かな環境を併せ持った“Garden City”という第三の住環境の建設が提唱された。ハワードの田園都市は「人口3万人程度」・「自然との共生」・「自立した職住近接型の都市」・「庭を備えた住宅」・「公園や森が隣接」・「周囲は農地が広がる」ものとされた。また土地は賃貸を原則とし、不動産賃貸料を以て建設費の償還および都市の維持管理に充て、地価上昇による利益が地主に独占されないという仕組みであった。ハワードの構想は多くの賛同を得て、1903年にはロンドンから北へ60km、電車で40分ほど離れた「レッチワース」で建設が始まり、今なお“Letchworth Garden City”として良質な郊外住宅地を形成している。
東急多摩田園都市は、事実上の本線である東横線や、発祥路線・目蒲線沿線の開発が飽和していたところ、起伏の激しい丘陵地ゆえに目立った開発がされてこなかった多摩丘陵へ、東急が培ってきた「鉄道」+「住宅地」開発のノウハウを注ぎ込み、理想とする田園都市の開発を目指した。ただ、ハワードの提唱した元来のGarden Cityとは異なり、東急の田園都市は広い庭を備えた戸建住宅を中心に、緑地や街路樹を計画的に配置するという要素は含まれるものの「自立した職住近接型の都市」という在り方は留保され、あくまで東京都心への通勤を前提とした。ただ、当初の東急は基幹交通としてモータリゼーション時代に対応する高速道路“東急ターンパイク”を構想(第三京浜道路として日本道路公団の手で開通)するなど、それまでの官主導の団地・ニュータウンにはない在り方を模索していた面もある。
▲田園都市線沿線はこのような起伏のある地形が広がる。それ故に比較的近年まで開発がされてこなかった
東急の源流・田園都市株式会社
“田園都市”構想は日本の郊外都市建設に大きな影響を与え、1910年には小林一三氏が率いた箕面有馬電気軌道(現・阪急電鉄)による“日本初の郊外型戸建分譲住宅地”として知られる“池田室町住宅”(大阪府池田市)として実現した。それまでも阪神間などで住宅開発は行われていたが、別荘地としての性格が強い富裕層向けであったのに対し、池田室町住宅は大阪へ通勤するサラリーマン向けに割賦で販売されたのが特徴である。
これを範として1918年、渋沢栄一により“田園都市株式会社”が設立され、1922年に第一号となる“洗足田園都市”の分譲が開始、翌1923年には同社を代表する「田園調布」が分譲。このアクセスとして同1923年に開通したのが目黒蒲田電鉄目蒲線(現・東急目黒線一部区間および東急多摩川線)である。当初は鉄道経営のノウハウがなかったため、渋沢栄一が大阪で成功を修めた小林一三に相談を持ち掛けたところ、鉄道院の官吏から転身し若手実業家の道を歩んでいた五島慶太を推挙し、目蒲電鉄の専務に就任。同年発生した関東大震災により、被害が甚大だった東京下町から山の手の郊外住宅地への転居が相次ぎ、田園都市株式会社による住宅地はたちまち人気となり完売。"所期の役目を達成した”として田園都市株式会社は1928年、子会社であった目蒲電鉄に吸収されて消滅した。この田園都市株式会社および目蒲電鉄が現・東急グループの起源であり、五島慶太は初代東急総帥として辣腕を振るった。2023年は目蒲線開通から100周年にあたる。
東急多摩田園都市は、民間主導の開発として最も広大な面積を誇る。約5,000ヘクタールもの広大な事業用地を確保するにあたり、東急は“一括代行方式による土地区画整理事業”を取り入れ、地権者の負担なしに土地区画整理を進める方式を採った(事業費を東急が立て替える代わり、区画整理により生み出される保留地の処分を東急に一任する)ことで、多くの地権者の協力を迅速に得ることができた。また、すべての土地を東急が買収してコントロールするのではなく、区画整理後の土地が地権者に残されたように、東急以外の手による開発が及ぶことも許容している。これにより、官主導の団地・ニュータウンのように“同じような景色で塗り固められる”ことがなく、“あそび”の部分が町ごとの個性を発揮することに繋がり、ハワードのいう“自立”の要素がうまく日本型に取り入れられたと解釈できるだろう。
▲東急以外のマンションや戸建住宅も広がる田園都市線沿線の住宅地。街並みが画一的になるのを防いだ
東急多摩田園都市計画は1953年、五島慶太による“城西南地区開発趣意書”として発表されたが、この時の事業範囲は現在の港北ニュータウン周辺を含む更に巨大なものであったことに加え、国による“首都圏整備計画”との整合性を図る必要があったこともあり、1956年に「多摩川西南新都市計画」として再度発表。ここからも事業範囲を田園都市線沿いに集約するなどの変更が加えられ、最終的に第1(概ね川崎市域)・第2(概ね『たまプラーザ』を中心とする横浜市青葉区周辺)・第3(概ね『青葉台』を中心とする横浜市青葉区・緑区周辺)・第4(概ね『南町田』を中心とする町田市・大和市周辺)の4ブロックが事業範囲として確定した。1961年には第一号のモデル地区として“野川第一土地区画整理事業”が完成し、「野川団地」―「武蔵小杉」を結ぶ東急バスが走り始めた。“野川台”と通称されるこの地区は最寄りの田園都市線「梶が谷」からもやや離れているが、扇形に広がる緑豊かな住宅地には「田園調布」に通じる東急イズムを今なお感じられ、マンションも立地する人気の住宅地であり続けている。
野川台公園 周辺のマンション
東急田園都市線開通
1966年、東急田園都市線の第一期区間となる「溝の口」―「長津田」が開通し、同時に「たまプラーザ」も開業した。戦前から「大井町」―「溝の口」間に通じていた大井町線(1963年に第一期区間に先んじて『田園都市線』に改称)を延長したもので、現在のメインルートである「渋谷」方面へは繋がっていなかった。そのため、東京都心へは「大井町」で京浜東北線に乗り換えるなどを強いられ、あまり便利とは言えなかった。一応「渋谷」―「二子玉川園」(現『二子玉川』)は路面電車の東急玉川線(玉電)で結ばれていたものの、渋滞の激しい国道246号(玉川通り)を走ることから定時性が低く、田園都市線から「渋谷」へは「自由が丘」で東横線に乗り換える遠回りルートの方が確実であった。
▲起伏のある地形を克服すべく切り通しやトンネルが多用されたのを逆手に取り、道路との交差は全て立体。踏切は一か所もない
この状況を打開するため、1977年に東急新玉川線「渋谷」―「二子玉川園」が開業。この時点では田園都市線5両編成、新玉川線6・8両編成と長さが揃っていなかったため、田園都市線の「渋谷」直通は日中に限られた。2年後の1979年に地下鉄半蔵門線「渋谷」―「青山一丁目」間が開業し、同時に田園都市線のほぼ全列車が新玉川線・半蔵門線直通となり、田園都市線も8両編成となった。これにより5両編成が限界だった大井町線への乗り入れが不可能になり、元々の大井町線区間を再び分離している。半蔵門線は都心側で延伸を繰り返し、1989年には「大手町」を経て「三越前」まで延伸したことで、田園都市線は都心西側のターミナル「渋谷」と東側の中心「大手町」両方へ一本でアクセス可能という高い利便性を獲得することとなったのだ。第一期区間開業から実に23年後のことであった。
▲長年にわたり東急田園都市線の主力として走った東急8500系電車(1977-2023)。“金妻”にも登場する
ただ、高い利便性は同時に激しい混雑という問題も引き起こした。最初期は2・4両編成での運行であったところ、将来に備えて10両編成対応で建設されたのはまさに慧眼というべきだが、それでも足りなかったのは、東急多摩田園都市の範囲を超え、他地域・他路線からの流入が激しくなったのが主因である。1966年の第一期開業の段階で「長津田」で横浜線と接続していたが、1984年の「中央林間」延伸で小田急江ノ島線、1993年に「あざみ野」へ横浜市営地下鉄ブルーラインが接続した。特にブルーラインは横浜市による港北ニュータウン開発と連動し、港北ニュータウンから東京都心へ向かう唯一のルートであったことから乗換客が激増し、東急は混雑対策に追われた。このため、一度は切り離した大井町線をバイパスとして再活用することとなり、2009年には大井町線を「二子玉川」―「溝の口」まで延長。「たまプラーザ」にも2012年から大井町線直通の急行が停車するようになった。
▲田園都市線は1984年に「中央林間」まで全線開通。小田急江ノ島線と接続し、乗換客も終日にわたり多い。
「たまプラーザ」という特徴的な駅名は当時の東急社長・五島昇氏の発案によると云われる。中国語表記だと「多摩广场」(簡体字)/「多摩廣場」(繫体字)となるように、“プラーザ”とはスペイン語の“Plaza”(広場)に由来する。ただしスペイン語の発音は「プラーサ」に近く、日本で定着している英語読み「プラザ」とは読みが離れてしまっていることから、五島昇氏によりスペイン語・英語を折衷した「プラーザ」が提案されたという。また「渋谷」から17.1kmと、「渋谷」―「中央林間」間31.5kmの中間地点に立地していることに加え、大山街道沿いの既存集落からも離れていたために用地が確保しやすく、東急多摩田園都市で最大の主要駅として構想された。このため既存集落から援用した名ではなく、東急多摩田園都市のシンボルとなる駅名が求められた。これら2つの要素を取り入れ、「たま」+「プラーザ」という唯一無二の駅名が誕生したというわけである。
▲「たまプラーザ」の駅名標。一度見たら忘れられない響きを持つ。
画期的な駅直結商業施設“たまプラーザテラス”開業
1966年の開業当時は文字通り何もなかった「たまプラーザ」駅前だったが、1968年には神奈川県住宅供給公社による「たまプラーザ駅前ビル」(住宅部分は『たまプラーザ駅前分譲共同住宅』)が竣工。地下1階・1階は東急所有の商業施設「たまプラーザショッピングセンター」を併設。地下2階には当時まだ珍しかった地下駐車場を設け、当時としてはかなりの高層となる10階建のコンクリート建築は、長くたまプラーザのシンボルとなった。また、同年には日本住宅公団による「たまプラーザ団地」が42棟1,254戸という大規模で落成し、これら2件はたまプラーザ初の共同住宅として記録される。開発が先行した駅北口側は1969年に“元石川町”から“美しが丘”へ改められ、今なお“美しが丘”は東急多摩田園都市を象徴するブランド住宅地としての名声を保っている。同年には当初の港北区から緑区が分区。開発と並行して、行政によるインフラ整備も進められていった。
▲イトーヨーカドーたまプラーザ店は1979年に開業。神奈川県内のイトーヨーカドーとしては老舗の部類。
人口の増加に合わせて商業施設も徐々に充実し、1979年にはイトーヨーカドーたまプラーザ店、1981年には東急百貨店たまプラーザ店を核店舗とする「たまプラーザ東急SC(ショッピングセンター)」が開業。東急線沿線の東急百貨店としては渋谷に次ぐもので、首都圏全体でも渋谷、日本橋(江戸時代からの『白木屋』を譲受。1999年閉店)、吉祥寺、町田(2007年ファッションビルへ転換)に次ぐ5店舗目である。「たまプラーザ」以外は繁華街の中核を占める位置にあり、駅前とはいえ住宅地に位置するたまプラーザ店は異質な存在といえ、文字通り東急多摩田園都市の核となる商業施設としての役割を担った。渋谷へ出ずとも“百貨店の買い物が近所でできる”たまプラーザ東急百貨店は、再開発の進展に伴って渋谷から東急百貨店が姿を消した(東横店:2020年閉店、本店:2023年閉店)後は、フルラインナップの百貨店としては東急沿線で唯一の店舗となっていることからも、たまプラーザの重要性が窺える。
▲たまプラーザ東急SCは1981年開店。現在は「たまプラーザテラス・ノースプラザ」としてリニューアルされた。
駅開設から40年を迎えた2006年、「たまプラーザ」は駅舎建替えと合わせての再開発事業が始まった。駅北口はたまプラーザ東急SCをはじめとする商業施設で賑わっていたが、南口は平面駐車場が広がっており、駅前の空間が有効利用されているとは言い難かった。そこで、南口の平面駐車場部分にロータリーや店舗を設けて機能を充実させると共に、北口のバスターミナル部分も重層化して店舗を設け、かつ駅を跨ぐ形で人工地盤を設けて北口・南口を一体化するプランが練られた。こうして2009~2010年にかけて完成したのが、駅直結型のショッピングモールとしては首都圏でも類を見ない規模を持つ「たまプラーザテラス」である。従来のたまプラーザ東急SCは「たまプラーザテラス ノースプラザ」としてリニューアルされ、引き続き東急百貨店も入居している。
▲駅を取り囲むように大屋根が架けられ、周囲に商業施設が展開する。駅と完全に一体化しているのが特徴
たまプラーザテラスが画期的なのは、駐車場を備えた郊外型SCに駅とバスターミナルが抱き込まれる形で、両者が完全に一体化している点だ。「駅」と「商業施設」が明確に分かれている、いわゆる駅ビルとは全く異なる。駅改札口が立地する2階フロアは“ゲートプラザ”の2階と一体化し、店舗間を行き来する買い物客と、駅の利用客が区別なく往来している。テナントも駅ビルのそれとは異なり、食料品ひとつとってみても、東急百貨店のデパ地下(東急フードショー)と、ゲートプラザ内の東急ストアの2つが揃っているのは便利だろう。田園都市線や東急バスに乗りさえすれば、食料品から衣料品まで揃う便利なSCに立ち寄れるため、近隣からも電車・バスでの来店が多い。上り下り問わず、日中でもたまプラーザテラスの袋を下げた乗客が電車・バスを待っている。田園都市線のような郊外住宅地を貫く路線は日中が空きがちだが、強力な集客施設が駅に直結していることで、日中の需要を生み出している。「たまプラーザテラス」の再開発では、まさに東急グループの総合力が発揮されたと言えるだろう。
▲大屋根が駅と商業施設全体を覆っている。たまプラーザテラスの開業は“街の在り方”をも変えた
次回:たまプラーザ駅――(横浜市青葉区/東急田園都市線)②未来編
たまプラーザテラスの開業は、たまプラーザのマンションにも変化をもたらしている。たまプラーザの住宅地の本分はやはり“美しが丘”の丘陵地に整然と広がる戸建であり、マンションもどちらかというと駅から少し離れた高台上、優れた住環境を誇るエリアが多かった。「たまプラーザ」駅前といえば以前から東急SCがあったように、落ち着いた住宅地が広がる東急多摩田園都市の中では賑やかなエリアであり、落ち着いた住環境を求める人々が多いこの地域にあっては“駅近”が必ずしもメリットにならなかったからだ。ところが、あくまで駅の付帯施設だった東急SCが見違えるほど強力に生まれ変わったことによって、今度は“たまプラーザテラス”自体が求心力を持ち、“たまプラーザテラスに近い”ことが魅力的になった。結果として、駅直結マンション「ドレッセたまプラーザ」や、ノースプラザからデッキで繋がる「ドレッセWISEたまプラーザ」といった駅近マンションが次々と誕生するに至ったのだ。もちろん、これらマンションは東急自ら手掛けているのは言うまでもない。
▲「たまプラーザ」を発車した「中央林間」行き。右(南)はたまプラーザテラス直結のマンション「ドレッセたまプラーザテラス」。
次回は、立地トレンドが変化しつつあるたまプラーザを歩きながら、東急多摩田園都市のまち開きから60年を迎えようとしている“新興住宅地”・たまプラーザの将来について考えてみよう。
▲たまプラーザ名物“のるるん焼き”。東急電鉄のキャラクターをかたどったたい焼き。街の子どもに大人気
▼次回▼たまプラーザ駅――(横浜市青葉区/東急田園都市線)②未来編 2023/12/1(金) 10:00 公開予定
※特記以外の画像は2023年10・11月筆者撮影。マンション図書館内の画像は当社データベース登録のものを使用しています。無断転載を禁じます。
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賃貸不動産経営管理士
佐伯 知彦
大学在学中より郊外を中心とする各地を訪ね歩き、地域研究に取り組む。2015年大手賃貸住宅管理会社に入社。以来、住宅業界の調査・分析に従事し、2020年東京カンテイ入社。
趣味は旅行、ご当地百貨店・スーパー・B級グルメ巡り。
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