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2024.01.22

溝の口駅・武蔵溝ノ口駅①歴史編――農村・溝口村が“田園都市線の異端児”になるまで(川崎市高津区/東急田園都市線・JR南武線)

溝の口駅・武蔵溝ノ口駅①歴史編――農村・溝口村が“田園都市線の異端児”になるまで(川崎市高津区/東急田園都市線・JR南武線)

東急田園都市線沿線といえば「二子玉川」や「たまプラーザ」のような“美しく整えられた上質な住宅地”というイメージに包まれるが、「溝の口」はそんな田園都市線の中でも異端といえる街だ。駅を出て目の前に広がるのは活気ある商店街で、周辺の道はどこも細く入り組んでいる。“溝の口西口商店街”に至っては、恐らく戦後からこのままなのではないかという雰囲気たっぷりの横丁が続く。下町的な熱気に包まれる「溝の口」は、田園都市線のイメージとは対極の存在といえるだろう。今回は、高級住宅地が連なる田園都市線にあって我が道をゆく街「溝の口」を歩き、“東京のすぐ隣”で“東京と共に歩んできた歴史”に思いを馳せ、「溝の口」がなぜ“我が道をゆく”ことになったのかを考えてみよう。

前回「たまプラーザ駅②未来編――“金曜日の妻たちへ”のその先へ…次世代郊外まちづくりを目指す街(横浜市青葉区/東急田園都市線)」

1.溝の口の歩み

・「溝の口」の由来はやっぱり“溝”

 さて、その特徴的な地名を解き明かしてみよう。東急田園都市線の駅名は「溝の口」、JR南武線は「武蔵溝ノ口」と表記が異なる上、川崎市バスは「溝口駅前」と、その表記は様々。住所は“川崎市高津区溝口”であり、国道246号(大山街道)と409号(府中街道)の交差点も“溝口”と、川崎市としては送り仮名を入れない“溝口”を正式表記として捉えているようだ。ただ“溝ノ口”と書かれた道路標識もあるなど、送り仮名の扱いは統一されていない。店舗名に至ってはてんでばらばらで、要は“お好きにどうぞ”ということらしい。以下、必要が無い限りは田園都市線の駅名に倣い「溝の口」と表記する。

▲左上から時計回りに、東急田園都市線「溝の口」駅、JR南武線「武蔵溝ノ口」駅、国道246号「溝口」交差点、川崎市バス「溝口」バス停・東急バス「溝の口」バス停。さらに中国語簡体字では「沟之口」となり、表記ゆれが激しい。

▲左上から時計回りに、東急田園都市線「溝の口」駅、JR南武線「武蔵溝ノ口」駅、国道246号「溝口」交差点、川崎市バス「溝口」バス停・東急バス「溝の口」バス停。さらに中国語簡体字では「沟之口」となり、表記ゆれが激しい。

 国土地理院の“陰影起伏図”を見てみると、ちょうど「溝の口」が複雑に入り組んだ谷筋が幾重にも広がる多摩丘陵と、多摩川右岸の平地の境目になっていることがわかる。ここから下流側、JR南武線沿いの「武蔵小杉」や「川崎」方面は比較的広い平坦な低地が広がっているのに対し、上流側は多摩丘陵が多摩川に迫り、平地の幅は狭くなる。東京都心方面からやってきた田園都市線や国道246号は「溝の口」を境に、それまでの直線的な経路から、谷筋を縫って小刻みにカーブを繰り返すようになり、トンネルも増える。ここから15kmほど先の町田市あたりまで、このような複雑に入り組んだ丘陵が続く。

▲国土地理院「標準地図」に「陰影起伏図」を透過。中央の+印が「溝の口」駅。北東の「二子玉川」からやってきた田園都市線と国道246号(赤線)は多摩川を渡り、「二子新地」「高津」の川沿いの平地を経て、「溝の口」から多摩丘陵へと突入していく。南武線は北西の「立川」方面へと「津田山」の谷間を抜けていく。西から来るのが平瀬川で、津田山をトンネルで貫く経路に付け替えられている。

▲国土地理院「標準地図」に「陰影起伏図」を透過。中央の+印が「溝の口」駅。北東の「二子玉川」からやってきた田園都市線と国道246号(赤線)は多摩川を渡り、「二子新地」「高津」の川沿いの平地を経て、「溝の口」から多摩丘陵へと突入していく。南武線は北西の「立川」方面へと「津田山」の谷間を抜けていく。西から来るのが平瀬川で、津田山をトンネルで貫く経路に付け替えられている。

 これら複雑に入り組んだ谷筋を流れる小さな川こそが“溝”である。つまり「溝の口」とは、小さな“溝”がやがて一つの川にまとまり、丘陵を抜け出て多摩川に注ぐ“口”という意味であり、この“溝がまとまった川”とは「溝の口」の西側を流れる平瀬川のこと。平瀬川は宮前区、その名も“水沢”あたりに端を発し、幾筋もの“溝”を合わせて「溝の口」まで流れてくる。現在の平瀬川は、水害防止のため西側の「津田山」(七面山)をトンネルで抜けて多摩川まで直線的に出る流路に改修され、旧河道は暗渠や“溝口遊歩道”“二子坂戸緑道”などに姿を変え、“溝の口”の由来たる“溝”は街中から姿を消した。

▲津田山をトンネルで抜ける流路に付け替えられた平瀬川。これにより、溝の口市街地の冠水リスクは大幅に減った

▲津田山をトンネルで抜ける流路に付け替えられた平瀬川。これにより、溝の口市街地の冠水リスクは大幅に減った

 この平瀬川沿いに発展した集落が神木(しぼく)や菅生(すがお)などで、がん治療などで知られる聖マリアンナ医科大学病院も菅生に位置する。これら地域の最寄り駅、小田急線「生田」や田園都市線「宮崎台」へ向かう道路は山を越えるために険しいことから、平瀬川で結ばれる歴史的経緯ゆえ「溝の口」との結びつきが強い。「溝の口」をターミナルとする川崎市バス(【溝18】鷲ヶ峰営業所ゆき、聖マリアンナ医科大学前ゆきなど)は日中でも約5分毎と本数も非常に多い。水の流れは少し距離を置くようになったが、水に代わって人の流れが「溝の口」に集まるようになってきた、ということか。

▲聖マリアンナ医科大学行きの川崎市バス。市道野川柿生線は平瀬川に沿い、住宅街が連なっている。

▲聖マリアンナ医科大学行きの川崎市バス。市道野川柿生線は平瀬川に沿い、住宅街が連なっている。

 余談ながら、大倉山近くの“横溝屋敷”(鶴見区。横浜市指定文化財第一号の豪農の邸宅)に見られるように、横浜・川崎から八王子あたりにかけては“横溝”姓の分布が多い。通常“溝”とは人工の細い水路のことを指すが、神奈川では“天然の細い谷筋の水の流れ”も“溝”と呼び、人工と天然の区別をしない。無数に広がる天然の“溝”沿いに農家が点在し、“溝”の水を引き込み、農業用水や生活用水として“溝”と共に暮らしを営んできた。その機能に人工も天然も関係ないので、ゆえに区別をしなかったという意味で“神奈川ことば”なのだろう。

・府中街道と大山街道の交点として…水を巡る騒動も

 「溝の口」へ水ばかりでなく人の流れが集まるようになってきたのは、武蔵国府が位置した府中へ至る“府中街道”と、江戸の庶民に親しまれた大山阿夫利神社(伊勢原市)へ至る“大山街道”の交点となったことがきっかけだ。まず、武蔵国の国府が府中(東京都府中市)へ奈良時代から平安時代にかけて置かれ、大きな海船は多摩川を直接遡れないことから、奈良や京都と府中を船で行き来する場合、多摩川河口にあたる川崎での乗り換えを必要とした。こうして川崎と府中は古くから往来があった(いわば京都と大阪の関係)ため、これらを結ぶために設けられたのが府中街道の原型である。

▲府中街道。川崎と府中を古来より結ぶ主要道路。府中が近くなると「川崎街道」に名が変わる

▲府中街道。川崎と府中を古来より結ぶ主要道路。府中が近くなると「川崎街道」に名が変わる

 また、大山街道はこれまた古くから主要道路として機能し(古代東海道も概ねこの経路だったとされる)、江戸時代の五街道整備で東海道が拓かれた後も“矢倉沢往還”となり、脇往還として機能し続けた。その大山街道が多摩川を渡ったのが“二子の渡し”(「二子玉川」―「二子新地」を結ぶ“二子橋”のあたり)で、江戸期には大山阿夫利神社(“雨降り”に通じることから五穀豊穣を司る神として庶民の崇敬を集めた)参詣に向かう人々で賑わった。大山街道の往来を見込み、街道で二つしかない薬局として1765年に開かれたのが“灰吹屋”であり、現在も“ハイフキヤ”として「溝の口」や「高津」に店舗を構えている。「溝の口」は2つの街道が交差し、古代からジャンクションとしての重要性を帯びていたのだ。

▲大山街道(旧道)沿いに残る、灰吹屋薬局の蔵。かつての大山街道二子宿の賑わいを今に伝えている。

▲大山街道(旧道)沿いに残る、灰吹屋薬局の蔵。かつての大山街道二子宿の賑わいを今に伝えている。

 「溝の口」には“二子塚古墳”、“諏訪浅間塚古墳”、“宗隆寺古墳群”など古墳も多く残っている。もとから人の流れが多かったのに加え、多摩川沿いの平地ゆえ、土木技術が未発達の古代でも稲作が容易な豊かな土地であったから、権威の象徴としての古墳も多く造られた。平安時代以降は武蔵国橘樹郡(たちばなぐん…現在の川崎市・横浜市北東部周辺)に含まれるが、鎌倉時代以降は源頼朝の御家人・稲毛三郎重成の所領となったことから“稲毛荘(しょう)”と呼ばれ(千葉市稲毛区の“稲毛氏”とは全く別)、江戸期に入ってもこの地域で採れる“稲毛米”は良質で評判だったというから、稲作伝来以降の二千年にわたり、良質なコメの産地であったわけだ。稲毛氏の“稲毛”姓も、“毛”=“禾”(のぎ偏)=“稲”に通じ、やはりコメにまつわるものというから、このあたりの景色から自然と生まれたのだろう。

▲こちらも大山街道沿いに残る“丸屋商店”(右)とその蔵(左)。丸屋鈴木家は江戸期以来溝口で歴史を重ねてきた

▲こちらも大山街道沿いに残る“丸屋商店”(右)とその蔵(左)。丸屋鈴木家は江戸期以来溝口で歴史を重ねてきた

 ただ、豊かな土地であるからには、人々の争いも付き物であった。江戸期に入り、江戸の人口が増えてコメの需要が増えていくと、多摩川下流域の広大な平地でも広く田が拓かれるようになり、多摩川から引く農業用水も取水量が増えていった。「溝の口」周辺は稲毛荘に代わり“稲毛領”となったが、下流の“川崎領”と合わせ、十分に農業用水を行き渡らせるべく“二ヶ領用水(にかりょう―)”が江戸初期に「稲田堤(多摩区)」から「鹿島田(幸区)」まで開削され(1610年)、需要の増加に応えた。しかし多摩川を流れる水は有限であり、江戸市中の用水として玉川上水が開削されると(1653年)、二ヶ領用水の取水口であった「稲田堤」より約25km上流の「羽村」(東京都羽村市)で取水されるようになり、多摩川下流の水量はさらに減少してしまう。次第に水資源が不足するようになり、ついには川崎領への水を稲毛領溝口村・久地村がせき止めてしまい、溝口村の名主・丸屋鈴木七右衛門の屋敷が川崎領の農民によって打ちこわしに遭うという事件まで起こった(溝口水騒動、1821年)。

▲現在の二ヶ領用水。かつて争いの種になった用水は、人々の憩いの場に姿を変えている。

▲現在の二ヶ領用水。かつて争いの種になった用水は、人々の憩いの場に姿を変えている。

 明治以降も結局地域の水を巡る争いは絶えなかったため、江戸期から長らく使われた“久地分量樋”に代わり、1941年に設けられたのが“久地円筒分水”である。用水を4つに分水するにあたり、それぞれの用水の灌漑面積に応じた比率で正確に分水するというもので、当時としては画期的な構造であったことから国の登録有形文化財となっている。ただ、都市化の進展によって農業用水としての役割は失い、用水も殆ど暗渠化された。現在は二ヶ領用水本流だけが残っているが、その二ヶ領用水ももはや“水を行き渡らせる”ものではなく、雨水などを集めて“水を捨てる”排水路に変わっている。かつて人々の争いの種になった二ヶ領用水は、桜並木が並ぶ緑の空間に変わり、人々の目を楽しませている。

▲久地円筒分水。サイホンの原理で中央から水が溢れ出て、灌漑面積に応じ4つに仕切られた先へ正確に分水される仕組み。

▲久地円筒分水。サイホンの原理で中央から水が溢れ出て、灌漑面積に応じ4つに仕切られた先へ正確に分水される仕組み。

・南武鉄道と玉電溝ノ口線の開通で“工業都市・川崎”へ

 永く農村だった「溝の口」が都市化の道を歩み始めるきっかけとなったのが、1927年の玉川電気鉄道(玉電)溝ノ口線(現・東急田園都市線)および南武鉄道線(現・JR南武線)の開通である。ただ、現在は双方とも立派な通勤路線であるが、建設当時はどちらも貨物列車が重要な存在であった点が、意外といえば意外だろうか。

▲大山街道を渡る南武線。路線の半分以上「川崎」―「稲田堤」が川崎市内に属し、川崎市の背骨を成す路線

▲大山街道を渡る南武線。路線の半分以上「川崎」―「稲田堤」が川崎市内に属し、川崎市の背骨を成す路線

 まず南武鉄道であるが、古代以来の“府中街道”をアップデートし、当初は官営鉄道(東海道本線)「川崎」を起点に「稲城長沼」までの橘樹郡同士を結ぶという地元本位の計画としてスタートしたものの、沿線に大口の需要が無かったので計画が遅々として進まなかった。ここに川崎でセメント工場を経営していた浅野財閥(浅野セメント、現・太平洋セメント)が目を付け、「立川」で中央本線や青梅電気鉄道(現・JR青梅線)と結ぶことで、奥多摩で発掘される鉱物を京浜工業地帯へと運ぶ短絡路線としての役割を担うこととなり、1927年「川崎」―「登戸」間が開通し、同時に「武蔵溝ノ口」駅も開業(兵庫県:JR播但線『溝口』駅があるので区別のため“武蔵”がついた)。1929年には「立川」までの本線、翌1930年には「尻手」―「浜川崎」(南武支線)も含めて全通し、さっそくセメント原料である石灰石を運ぶ貨物列車が走り始めた。当時は京浜工業地帯としての川崎市の発展が著しく、原料の搬入や製品の搬出、また従業員の通勤にも便利だった南武鉄道沿線は、瞬く間に京浜工業地帯の一翼を担う工業地域として発展。かつて豊かな田であった平地へ次々と工場や職工住宅が建てられていき、南武鉄道は“工業都市・川崎”の背骨として欠かせない鉄道へと成長していったのだ。

▲「武蔵溝ノ口」を出る南武線「川崎」行き。東京都心への路線(放射線)同士を結ぶ環状線としての役割も大きい。

▲「武蔵溝ノ口」を出る南武線「川崎」行き。東京都心への路線(放射線)同士を結ぶ環状線としての役割も大きい。

 また、玉電は「渋谷」から大山街道沿いに伸びる路面電車として1907年に「渋谷」―「玉川(現・二子玉川)」が開通したが、玉電の主目的は多摩川で産出する砂利であった。当時の帝都・東京の発展は著しく、古来の木造建築に代わりコンクリート建築が普及していくにあたり、原料となる砂利の需要が急増していた。1923年の関東大震災以後は地震にも強いコンクリート建築が一般にも普及し、需要増に拍車をかけた。これに応え、玉電も多摩川上流へと砧線(きぬた―、『玉川』―『砧本村』)を伸ばし、採掘現場を広げている。この流れに乗り、1927年に“二子橋”を東京府・神奈川県・高津村と玉電の四者が四分の一ずつ建設費を負担して架橋(同時に“二子の渡し”は廃止)、「玉川」―「溝ノ口(現・溝の口)」が“玉電溝ノ口線”として開通した。駅開設は南武鉄道の方が4ヶ月早かったが、ほぼ同時に2つの鉄道が開通したことで「溝の口」は一躍地域を代表する交通ターミナルとして飛躍することになった。

▲二子玉川ライズから眺める多摩川と「二子玉川」駅。かつての玉電は砂利採取のため多摩川まで伸びてきた

▲二子玉川ライズから眺める多摩川と「二子玉川」駅。かつての玉電は砂利採取のため多摩川まで伸びてきた

 南武鉄道沿線全体が工業都市として発展していたが、もともと府中街道と大山街道が交差する要衝であった「溝の口」の発展は特に著しく、工場の従業員や住民に加えて乗換客も往来する「溝の口」駅前は商業地としても発展していく。「溝の口」駅前の繁華街は、概ねこの時期に基本が造られたといってよいだろう。1934年に玉電は東京横浜電鉄(現・東急電鉄)に合併され“東急玉川線”として再出発しているが、いよいよ戦時体制が厳しくなり、南武鉄道沿線の工場勤務者が著しく増加すると、路面電車規格の玉川線では乗客を捌ききれなくなった。このため、玉川線に代えて「二子玉川」で接していた大井町線(一般の鉄道車両)を溝ノ口線へ乗り入れさせて輸送力を増やすこととし、1943年に「大井町」―「溝ノ口」が新たな“大井町線”となった。また、軍需工場が多数立地し、戦時体制下で重要な存在であった南武鉄道が1944年に国有化され“国鉄南武線”となった。他の“東武線”“西武線”が私鉄として独立を貫いたなか、南武線は“戦後は元の会社に戻す”という約束も反故にされ、民間に戻ることはなかった。

▲玉電の末裔、東急世田谷線。小型車2両と小さいが、かつての玉電溝ノ口線も似たような大きさだった。

▲玉電の末裔、東急世田谷線。小型車2両と小さいが、かつての玉電溝ノ口線も似たような大きさだった。

・東急多摩田園都市の“口”として

 軍事利用から平和利用への転換はあったものの、戦後も“工業都市・川崎”として歩んでいた「溝の口」にとって転機となったのが、1966年の東急田園都市線「溝の口」―「長津田」の延伸だった。細い谷筋が幾重にも入り組む複雑な地形ゆえ開発が進まなかった多摩丘陵へ、東急が自ら理想とする住宅地をつくりあげる“東急多摩田園都市”計画が立てられ、その基幹交通として「溝の口」まで来ていた大井町線を延伸することとなったのだ。これを受け、1963年にまず「大井町」―「溝の口」を“田園都市線”に改称、3年後の1966年に「長津田」までの第1期区間が開通した。段階的に延伸が進み、1984年には「中央林間」まで全線が開通した。また、東京都心へは「自由が丘」で東横線、「大井町」で京浜東北線などへの乗り換えが必要であった不便を解消するため、路面電車のままであった玉川線を地下鉄へと置き換えることとなり、1969年に玉川線が廃止。8年後の1977年に“新玉川線”として「渋谷」―「二子玉川園」が開通、1979年には田園都市線の全列車が「渋谷」方面直通となり、「大井町」―「二子玉川園」が再び“大井町線”として分離され「溝の口」から「大井町」行きが姿を消した。

▲地下鉄半蔵門線に乗り入れる東急田園都市線。多摩田園都市から「溝の口」を経て東京都心へ直結する

▲地下鉄半蔵門線に乗り入れる東急田園都市線。多摩田園都市から「溝の口」を経て東京都心へ直結する

 順調に発展していった田園都市線だが、同時に深刻な混雑が問題となった。特に「溝の口」―「二子玉川」間は「溝の口」でJR南武線→「渋谷」方面への乗換客が流入し、「二子玉川」で田園都市線→大井町線への乗換客が分かれる状況にあり、2つの流れが重なって深刻な混雑になっていた。1992年にはそれまで1線だった上りホームが2線となったが、これは南武線からの乗換客が殺到して急行がなかなか発車できずにいたところ、追い抜いたはずの各停が追いついてきて電車の渋滞が起きていたのを緩和すべく、互い違いに発着できるようにして、駅の手前で各停が待たされるのを防止するもの。ただ、これにより遅延は少なくなっても輸送力が増えたわけではないので、抜本的な対策が求められた。そこで2009年に完成したのが“田園都市線「二子玉川」―「溝の口」複々線化・大井町線の再乗り入れ”だ。

▲「溝の口」で出発を待つ大井町線「大井町」行き。田園都市線とは同じホームでスムーズに乗り換えられる

▲「溝の口」で出発を待つ大井町線「大井町」行き。田園都市線とは同じホームでスムーズに乗り換えられる

 これにより、田園都市線(『中央林間』方面)⇔大井町線の乗換地点が「溝の口」となったため、上り田園都市線は「溝の口」で大井町線への乗換客を降ろしたところに南武線からの乗換客を受け入れられるようになり、混雑緩和と遅延抑制の両方に多大な効果を発揮した。また、大井町線自体も、それまで殆ど全てが線内折返しの各停のみであったところ、急行運転(2008年)、終日にわたる田園都市線直通運転(2012年)、急行の6→7両へ増車(2017年)などの改善を重ねたことで、「大井町」を経て「品川」や「東京テレポート(お台場)」などへのバイパスルートとして機能するようになった。「溝の口」にとっても多摩川の向こうだった大井町線の利用がグッと便利になったのだ。また、長年にわたり各停が12分毎に走るだけだった南武線も、各停5→6本/h(10分毎)へ増発(2007年)、「川崎」―「登戸」で快速運転(2011年)、快速運転の全区間拡大(2015年)、日中のみだった快速運転を夕方にも拡大(2019年)など、地味ながらも改善が続けられている。一連の改善を通じて「武蔵溝ノ口」を発着する日中の本数は、5本/h(2007年以前)→8~9本/h(現在)と、1.5倍以上に増えているのだ。

▲夕ラッシュに大井町線からの乗換客で混雑する下り田園都市線。降車も多いのでホームは混雑しやすい

▲夕ラッシュに大井町線からの乗換客で混雑する下り田園都市線。降車も多いのでホームは混雑しやすい

 それにしても、東急側は「渋谷」からの玉電の一部として開通した後、戦時体制により「大井町」からの大井町線へ組入れ、東急多摩田園都市の利便性向上のための新玉川線開通により再度「渋谷」方面へ繋がり、田園都市線混雑緩和のため「大井町」行きを再度乗り入れ…と、時代に応じて「渋谷」行きと「大井町」行きがコロコロと入れ替わる。まるで平らな地面に流した水の流れの如く、電車の行先が時代によってこうも変わる駅は珍しい。「溝の口」という地名の言霊なのだろうかと思ってしまう。

▲「溝の口」に到着した大井町線「溝の口」行き。僅か2.0kmの複々線化だが、田園都市線混雑緩和に大きな効果を発揮した

▲「溝の口」に到着した大井町線「溝の口」行き。僅か2.0kmの複々線化だが、田園都市線混雑緩和に大きな効果を発揮した

次回予告:工場撤退と再開発ビル「NOCTY(ノクティ)」 ほか

 田園都市線の延伸と「渋谷」方面への乗り入れは、「溝の口」が史上初めて「大手町」など東京都心から乗り換えなしで結ばれることとなり、街の地位を大きく向上させた。長らく「川崎」駅周辺に次ぐ川崎市第二の拠点といえば「溝の口」であり、元々の街道筋である大山街道沿いに加え、駅周辺に点在する東芝、日本工学(ニコン)、日本電気(NEC)、池貝鉄工所などの大規模工場の通勤客相手の商店街が四通八達し、2000年頃までは工場街でしかなかった「武蔵小杉」よりもはるかに賑わっていたのだ。時代が下り、東芝とニコンは「パークシティ溝の口(1983)」へ、NECは「ザ・タワー&パークス田園都市溝の口(2006)」へ、そして池貝鉄工所は「かながわサイエンスパーク(KSP、1989-)」へ生まれ変わったが、「溝の口」の商店街は引き続きこれらの住宅やオフィスの人々で賑わっている。

▲「溝の口」駅東口のペデストリアンデッキから繋がる再開発ビル「NOCTY」。現代の溝の口を代表する景色だ

▲「溝の口」駅東口のペデストリアンデッキから繋がる再開発ビル「NOCTY」。現代の溝の口を代表する景色だ

 ところが、川崎市第二の拠点としての発展が早かった分、肝心の「溝の口」駅前は多くの問題を抱えていた。特に東急・JR・バス相互の結節が悪く乗り換えに街中を長い距離歩かされたり、戦後の闇市あたりから変わらない雑多な老朽建築が密集したりという点は、防災上問題があるばかりでなく、将来の発展を阻害しているともいえた。次回は「溝の口」の各エリアを紹介しつつ、いかに再開発を遂げ、いかなる将来の発展を目指しているのかを見ていこう。

▼次回▼溝の口駅・武蔵溝ノ口②未来編――(川崎市高津区/東急田園都市線・JR南武線) 2024/2/2(金) 10:00 公開予定

※特記以外の画像は2023年12月筆者撮影。マンション図書館内の画像は当社データベース登録のものを使用しています。無断転載を禁じます。

佐伯 知彦

賃貸不動産経営管理士

佐伯 知彦

大学在学中より郊外を中心とする各地を訪ね歩き、地域研究に取り組む。2015年大手賃貸住宅管理会社に入社。以来、住宅業界の調査・分析に従事し、2020年東京カンテイ入社。
趣味は旅行、ご当地百貨店・スーパー・B級グルメ巡り。

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