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更新日:2023.03.31
登録日:2023.03.31
西新井駅――“西新井”は徐々に東へ?“北野武氏の故郷“お大師さま”の街(東京都足立区/東武スカイツリーライン・大師線)
西新井といえば何といっても西新井大師總持寺であるが、ご存知「ビートたけし」こと北野武氏(以下『北野氏』)の生まれ育った町でもある。北野氏は「西新井」駅東方の足立区島根に生まれ育ち、駅東口程近くの梅島第一小学校に通い、明治大学工学部へ進学するまで殆ど足立区を出なかったという、生粋の“足立っ子”である。彼は自らの芸の中でも足立区をよく引き合いに出すが、彼が扮する“足立区から日本を明るくする会”の“足立田チン平”はその代表だろう。「世間の足立区に対するイメージが酷すぎる!」と声高に主張し足立区を擁護するも、逆に貶める内容になっているのがオチというわけだが、彼の芸を苦々しく思う足立区民はもはやいないはずだ。今回は西新井大師總持寺に参りつつ、北野氏を育てた足立のへそ、西新井という街を歩いてみよう。
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1.西新井の歩み
“お大師さま”由来の地名
よく勘違いされることとして、西新井は“新井の西”という訳ではなく、【西新井】でひとつの地名を表す。その由来は、弘法大師が西新井大師總持寺に立ち寄った折、折からの疫病に苦しんでいた衆生を救うべく、十一面観音像と弘法大師自らの像を彫り、二十一日間の護摩祈願を行ったところ、お堂の西側にあった涸れ井戸に清水が湧き、その水を飲むと病はたちどころに平癒したという言い伝えによるものだ。“西”の“新”しい“井”戸で「西新井」というわけである。このため、東新井や中新井などは周辺に存在せず、東にあるのは梅島、栗原、島根といった地名であり、過去にも遡って存在したことはない。
▲西新井大師總持寺に残る“西新井”とされる井戸。まさに“西新井発祥の地”がここ
西新井大師の創建は天長3年(826年)といわれる関東屈指の古刹であり、川崎大師平間寺と並び立つ“関東厄除け三大師”である。程近く(約1km西)を東海道が通っている川崎大師と同様、西新井大師は約1km東に(古)奥州街道が通っており(江戸幕府が造った旧日光街道および現在の国道4号“日光街道”とは別)、江戸幕府が成立するはるか前から人の往来があったのだろう。ただ、江戸幕府による五街道建設による(旧)日光街道は、西新井大師が含まれる西新井村ではなく東の島根村を通ることになり、西新井大師から(旧)日光街道へは2kmほど離れてしまっている。
▲西新井の東側は東新井ではなく“島根”など。「島根鷲(わし)神社」は旧日光街道すぐ近く。古くから人の流れがあったことがわかる。
1899年、東武線「北千住」―「久喜」間開通と同時に「西新井」駅が開業。この時、途中駅は「西新井」のほか「草加」、「越ヶ谷」(現『北越谷』)、「粕壁」(現『春日部』)、「杉戸」(現『東武動物公園』)の旧日光街道の宿場町に準じる5駅のみで、現在の急行停車駅よりも少なかった。ただ、「西新井」と名乗りつつ、1932年の東京市足立区の成立まで、この駅は南足立郡梅島町(“梅田”村と“島根”村の合併による)に属しており、西新井村改め南足立郡西新井町からはまたも東へ外れていた。尤も、1899年の駅開業当時「梅島」「大師前」の両駅はなく、西新井大師や西新井町へはやや距離があったものの最寄駅ということに変わりはなかったため、“お大師さま”として知名度が高い「西新井」の名がつけられたものと考えられる。
▲「西新井」の駅名。一語のため英字は「Nishiarai」となっており、北千住(Kita-Senju)のようなハイフンが入らない。
“東武鉄道の街”として
1918年、東京紡績西新井工場(のちの日清紡東京工場)が駅南西側に完成。1923年、荒川放水路の開削によって「北千住」―「西新井」間の経路が北側に付け替えられ、翌1924年「浅草」(現『とうきょうスカイツリー』)―「西新井」間が電化。電車の運転が開始されると同時に、それまで中間駅がなかった「北千住」―「西新井」間に「小菅」「五反野」「梅島」の3駅が設けられ、東武線の近代化が一気に進んだ。また、駅南側の旧線跡と新線に囲まれた三角地を利用し、東武線の電車メンテナンスの一切を担う“東武鉄道西新井工場”が設けられた。日清紡東京工場と東武西新井工場はほぼ隣接しており、駅南側に“お大師さま”由来の駅名とは相いれない、一大工業地区が生まれることとなった。
▲駅南側の“亀田トレイン公園”(西新井工場跡地)。西新井工場は80年以上にわたり東武鉄道の中枢を担った
1931年には現在の大師線にあたる「西新井」―「大師前」間が開通。「西新井」は観光地・西新井大師最寄り駅としての役割を「大師前」に譲った。この時、「西新井」の駅名は駅開設から30年以上が経過してすでに定着していたこと、および大師線乗換駅としてわかりやすくする目的から、駅名が変更されることはなかったが、仮に大師線の駅が「西新井大師前」であったとしたら、本線の駅は紛らわしいので「栗原」などに改称されていたかもしれない。本線の駅が「西新井」としてそのまま残ったことで、以後「西新井」が日清紡と東武鉄道の“工場の街”、「大師前」が“お大師さまの街”として明確に分かれることとなった。
▲亀田トレイン公園に保存されている旧型電車の車輪。“東武鉄道の街”であった記憶が大切に保存されている
なお、大師線は純粋な西新井大師参詣のための路線と思われがちだが、大師線はもともと“西板線(にしいたせん)”と称し、「西“新”井」から東上線の「上“板”橋」までを結び、途中駅として「大師前」のほか足立区内に「鹿浜」、荒川・隅田川を渡った先に「神谷」、「板橋上宿」が設けられる計画であった。ところが、建設中の1923年に関東大震災が発生し、被害が甚大だった東京下町に路線を有していた東武鉄道はその復旧に追われたこと、また震災からの復旧に際し、未開発であった西板線沿線への住宅や工場の移転が相次いだことで用地買収が困難となり、ついに「大師前」から先が陽の目を見ることはなかった。
▲「西新井」に到着する大師線。たった1駅の支線ゆえ、都内には珍しい2両編成。
押し寄せる団地開発の波
北野氏は戦後の1947年、台東区浅草に生を受けるが、ほどなく弓屋の父・北野菊次郎氏(おもちゃの弓に漆を塗っていた)がペンキ屋に転身すると共に、足立区島根町(当時)へと転居している。父の転身の背景には、北野氏曰く「足立区も沼やなんか埋めて、家が建って住宅地になって、ヨイトマケになっちゃったから、父ちゃんペンキ屋になっちゃって」というように、当時の足立区で猛烈な勢いで進んでいた宅地開発があるだろう。
▲島根町を貫く旧日光街道。「西新井」駅から少し離れた辺りは、今も町工場が点々と存在する。
北野氏が生を受けた当時の台東区や墨田区といった下町は、東京大空襲(1945)でコンクリート製の建物を残して町全体が灰燼に帰すなど、東京随一の繫華街・歓楽街であったがために壊滅的な被害を受け、再出発のさなかにあった。「浅草」から東武線で結ばれる先の足立区や埼玉県方面はまだ被害が小さかったため、生活再建のために移り住む住民も多く、新しい住宅が次々に建てられていた。したがって屋根の塗装をはじめ住宅関連の職人の需要も高く、父・北野菊次郎氏はここに商機を見出したのだろう。北野氏が幼少期を過ごした島根町は「うちのまわりは職人が多くて。目の前も大工だし、左官屋もいたし、うちはペンキ屋だし」と語っているように、住宅関連の職人が集住する地域だったようだ。
▲島根鷲神社に建つ“足立の夏菊”の紹介。市街化が進む前は一面の農村だったことを伝えている。
東武線の日比谷線直通開始前、1958年には足立区内で初となる“西新井第一団地”(現:UR都市機構フレール西新井第一)が建設されたのを皮切りに、公団竹の塚第一団地(1965年入居開始)や公団花畑団地(1964年入居開始、『竹ノ塚』より東武バス)など、都県境を越えて埼玉県方面へと、今度は猛烈な勢いで住宅団地建設の大波が及んでいく。これと呼応するように、1962年、東武線は地下鉄日比谷線との直通運転を開始。それまでは「浅草」で地下鉄銀座線と接するのみで山手線にも達していなかったのが「銀座」や「霞ヶ関」といった都心部まで乗り換えなしで結ばれるようになり、草加松原団地(埼玉県草加市、1962年入居開始)、武里団地(春日部市、1963年入居開始)など、東武線沿線は一気に“団地の街”へと変化していった。
▲草加松原団地改めUR「コンフォール松原」(埼玉県草加市)。東洋一といわれた“マンモス団地”は建て替えが進んでいる。
北野氏も「都会のサラリーマンの人が、建売住宅をわーっと買い出し」、「足立区にじゃんじゃんじゃんじゃん人が流入したら、いろんな文化も入ってくるけど、いろんな人間関係が出てきて、新しく来た子達とおいらたちと、遊びが違ってたり」したと語っている。職人の家に生まれた北野少年と、新しい団地へ入居してきたサラリーマン世帯の子どもは、まるで異文化の出会いだったのだろう。「俺が小学校出るころには普通の東京になって、昔は足立区はガラが悪いとか言われたけど、そんなことはなくなってた」という。北野家も戦後になってから足立区へ移ったのだが、団地が建ち始める10年ほど前のことであり、既に古参の部類だったのだろう。戦後の足立区が、いかに猛烈な勢いで変化していったかが、北野氏の言葉を通じて感じることができる。
▲環七通り(上)と国道4号日光街道(下)が交差する梅島陸橋。足立区内の環七通りは1969年に開通した
それと共に東武線は猛烈な混雑が問題となり、1974年には「西新井」を含む「北千住」―「竹ノ塚」間が複々線化され、「浅草」発着の準急電車と、日比谷線直通の各駅停車の分離が図られ、押し寄せる乗客を捌いていった。1969年には「西新井」から東西に延びる“環七通り”が開通し、西板線が通らなかった「鹿浜」や「神谷」(現:南北線『王子神谷』)へは国際興業バス、また「王子」や「池袋」へは都営バスが通じ、「西新井」は足立区東部の鉄道空白地帯へのバスターミナルとしても発展してゆく。
なお、西板線「鹿浜」駅の設置が予定されていたエリアには、およそ80年の時を経て日暮里・舎人ライナー「西新井大師西」および「江北」が2008年に開業。山手線に接続する「日暮里」までわずか14分で結ばれることとなり、鉄道空白地帯の解消という足立区の宿願が叶っている。
▲「西新井」で接続をとる区間準急(右)と普通(左)。普通は日比谷線直通、準急・急行は半蔵門線直通で利便性は高い
1973年には西口へ東武鉄道による駅ビル“TOSCA(トスカ)西館”、また1981年には東口へ“TOSCA東館”とニチイ西新井店(現:イオン西新井店)が同時にオープン。この頃には、門前町の商店街の域を脱さなかった「大師前」周辺に代わり、複数の大型商業施設が立地する上に大規模団地や鉄道空白地帯からのバス路線が多数集まる「西新井」周辺が、足立区北部の中心としての座を担うこととなった。もはや単に「西新井」と呼んだ時には西新井大師周辺ではなく、駅周辺を指す地名として変化しており、「西新井」の名が西新井大師から東へ離れ、独り歩きしていると言えよう。
なお、1990年代以降の再開発による変化は、次章で触れることとしたい。
▲トスカ西新井東館。40年以上の歴史を重ねてきた
2.西新井を歩く
「西新井」西口…工場跡地再開発による変貌
さて、まずは「西新井」駅西口に降りてみよう。「西新井」駅には西口と東口があるが、メインとなるのはやはり西新井大師を向く西口である。90年以上昔とはいえ、大師線開通まで30年以上にわたり西新井大師總持寺の最寄り駅としての役割を果たしていたのがこの西口。駅前ロータリーは小さなビルや個人商店などが囲んでいて雑然としており、成田山新勝寺門前の「京成成田」駅前に似た雰囲気。
▲「西新井」駅西口。トスカ西館(左)の解体が進んでいる。環七通りを走る「池袋」行き都営バスは大変利用が多い(右)
しかしながら、駅すぐ先の商業施設“パサージオ”から先は、歴史ある門前町らしからぬ、幅の広い整然とした道路がまっすぐに伸び、“レコシティ・グランデ”“レコシティ・プライム”“ザ・ステージオ パークフロント”など、数々の大型マンションが建ち並ぶ光景に驚かされる。大型マンション街に隣接して大型商業施設“アリオ西新井”が建ち、館内の“TOHOシネマズ西新井”は10スクリーン・1,775席を誇る足立区最大のシネマコンプレックスとして、日々多くの客を集めている。マンションとアリオに囲まれた広場は“西新井さかえ公園”の名が付き、マンションに住まう子どもをはじめ、地域住民の憩いの場となっている。
▲駅西口の“さくら参道”と“アリオ西新井”。足立区はイトーヨーカドー発祥の地でもある(北千住)。
駅西口からのメインストリートに“さくら参道”の名が付く以外、全くもって門前町らしからぬ整った光景だが、ここがかつて何であったかは、西新井さかえ公園に面する“ぼうせき通り”“せんぷ通り”の名でわかる。ここは前節で述べた日清紡東京工場であり(2002年まで操業。アリオ西新井は2007年オープン)、UR都市機構を中心に“西新井ヌーヴェル”の名で再開発が進められた一角だ。“ぼうせき通り”はそのまま“紡績”、“せんぷ通り”はややわかりにくいが“染布”というわけであり、地域の成り立ちを街路名に記憶している。
▲“ぼうせき通り”の街路表示。日清紡は今でもアリオの施設を所有している。
「西新井」西口 西新井ヌーヴェル 周辺のマンション
ただ、その“西新井ヌーヴェル”も尾竹橋通りで途切れ、そこから先は“西新井大師道”(西新井三栄商店会)という道幅も狭く、古い商店街になる。この商店街こそ、東武線開通から「大師前」駅開業まで西新井大師總持寺への門前通りとなっていたのであり、往時の風情を伝えている。尾竹橋通りから先が足立区西新井本町となり、かつての南足立郡西新井町の中心に近いあたりとなる。
▲“さくら参道”が尾竹橋通りを越えると“西新井大師道”になる。こちらは昔ながらの風情を残す。
商店街は途中で“本木新道”という2車線道路と交差するが、西新井町役場はこの本木新道を南へ進んだ本木東町に設けられていた。役場が「西新井」駅から遠く離れているように、かつて“西新井”といえば大師周辺を指す地名であったことがよくわかる。本木新道は“新道”という割に歩道もなく、細く曲がりくねった昔ながらの道であるが、これは千住宿から西新井大師總持寺へと続いていた古道を、バスも通れる幅に改修したという意味合いのようだ。現在も東武バス北01系統が「北千住」~「大師前」間を10分間隔で結んでおり、東武線から離れた本木地区の重要な足となっている。
▲人・車とも多い夕方の本木新道。北千住行きのバスが頻発することから「バス通り」の名でも呼ばれる。
「大師前」周辺…“関東の高野山”西新井大師
商店街が北へ曲がり、環七通りと直交する地点に“東武西新井サンライトマンション”という、歴史を重ねたマンションが建っている。1階には東武ストア大師前店が入居し、環七通りを挟んだ反対側は大師線の終点「大師前」という便利な立地だが、ここはかつて環七通り拡幅工事前までの「大師前」駅であった。「大師前」開業当時は「上板橋」方面への延長を前提としていたため、「西新井」から西新井大師總持寺への参道と直交する地点に「大師前」駅が設置されていたが、環七通りの拡幅によって駅用地が道路予定地となってしまったため、やむなく駅を西新井大師總持寺に近い北側の現在地へと100mほど移設、あわせて高架化を実施したもの。線路跡はゆるやかにカーブした道路となり、環七通り南側の駅跡地と北側の新駅との間には環七通りを跨ぐ歩道橋が架けられ、たった100mとはいえ、東京23区には珍しい廃線跡らしさを感じることができる。
▲東武西新井サンライトマンション。東武ストアが1階に入居し、大師前地域の買い物の中心。
環七通りを渡ると、いよいよ西新井大師總持寺の山門が見えてくる。現在の「大師前」駅から西新井大師總持寺へのルートは東門が近く、山門へは脇から合流するような形になっているが、これは前述の通り、参道に面していた駅を移設したことによるもの。大師名物の草団子屋などはほとんどが山門側に集中しており、駅前がやや静かなのは、こうした経緯を知っていなければわからないだろう。
▲「大師前」駅舎。駅から素直に向かうと山門ではなく東門に至る。山門は東門を通り過ぎた先。
ちなみに、こうした有名寺社仏閣は観光客の出足が早く、日が傾く頃には皆引き上げてしまうことが多い。調査の都合上15時過ぎに「大師前」駅に降り立ったが、数軒あるはずの草団子屋は軒並み売り切れであった。草団子にありつきたければ、少なくとも13時くらいまでには来ないといけないようだ。
▲西新井大師總持寺山門へ続く参道。ここは生活の場というよりも観光地といった雰囲気
西新井大師總持寺周辺は足立区西新井の住所となるが、その東端に日暮里・舎人ライナー「西新井大師西」駅が設けられている。西新井大師總持寺へは徒歩13分ほど、「大師前」駅へは徒歩15分ほどで、決して歩けない距離ではないものの、そのルートはほとんどが住宅地であり、参道としての雰囲気は殆どない。ただ、大師周辺こそが本来の“西新井”ではあるが、“西新井”を冠した駅名を付けようにも「大師前」や「西新井」と乗換駅であるかのような印象を与えるわけにもいかず、さりとて“西新井五丁目”のような淡白な名では“西新井大師總持寺へのもう一つのルート”というアピールにならない…などといった事情が絡み合い、こうしたいかにも苦しい駅名になってしまったのだろう。
▲「大師前」駅すぐ近くの商店街。“足立西新井郵便局”の名があるように、本来の“西新井”は大師近くを指す。
「大師前」駅 周辺のマンション
「西新井」東口…“戦前”と“戦後”の境が見える街
さて、今度は駅反対側の東口へと出てみよう。環七通りを走るバスのターミナルとして機能する西口とは対照的に、東口駅前は駅ビル“TOSCA西新井東館”(東武西新井サンライトマンション)、細い道を隔てた向かいに“イオン西新井店”が構える以外、コンパクトな駅前広場があるくらい。バスも足立区役所へ向かうコミュニティバス1路線が路傍から発着するのみで、急行停車駅とは思えないほど。ただ、環七通り北側“ギャラクシティ”へはここが最寄りであるほか、北野氏の母校・梅島第一小学校、さらには旧日光街道はこちら側であり、西新井大師總持寺とは違った形の市街地が形成されている。
▲イオン西新井店(左)と駅東口(右)。ニチイ時代から40年以上の歴史を重ねる。駅前の道路は狭く、やや窮屈。
ギャラクシティとは「足立区こども未来創造館」「足立区西新井文化ホール」の総称で、1994年に隣接する“都営栗原一丁目アパート”の建て替えと共に開館。“東京23区最大のプラネタリウム”やクライミングウォール、902席の音楽ホールなどを備え、子どもが多い足立区の中でも中心的な存在の公共施設となっている。東武線での来館も多いようで、「西新井」駅東口から路上にペイントが施してあり、訪問時も親子連れの姿が見られた。
▲都営住宅と一体となった“ギャラクシティ”。西新井屈指の集客施設でもある
ただ、東口で目立つのはイオン西新井店とギャラクシティくらいで、その先は新旧混然とした町工場混じりの住宅地が広がっている。北野氏が生まれ育った島根(島根町)や六月(ろくがつ。六月町)といった辺りは、旧日光街道(江戸期に造られた道)が南の「梅島」駅を貫きまっすぐ南北に通る他は、街路は入り組み、曲がりくねった細い道が多い。ただ、これが一つ隣の「竹ノ塚」駅寄りの足立区竹の塚、保木間(ほきま)辺りになると、整然とした地割になるから興味深い。
▲島根の戸建住宅地。入り組んでいる中でこの道だけ真っすぐ。かつてはおそらく用水路だったのだろう
おそらく、1924年に「浅草」―「西新井」間が東武線最初の電化区間となったように、西新井大師總持寺を擁する「西新井」までが東京近郊区間とみなされていたのだろう。電化時に3駅が増設されたおかげで「西新井」までは駅間距離が概ね1km程度と短いのに対し、次の「竹ノ塚」へは2.1km離れており、「竹ノ塚」以北の埼玉県内も概ね1.5~2kmほどと、駅間が長くなっていく。1923年の関東大震災、および第二次大戦による都心部からの流入人口増(北野家もこの一員である)は、概ね「西新井」が限界だったのではないだろうか。その頃の人口流入は、区画整理をしているどころではない怒涛の勢いであっただろうし、農村時代の畝(うね)や畔(あぜ)に由来する地割りが、結果的に現代まで引き継がれている。
▲島根鷲神社入り口。駅からやや離れるが、周囲は和菓子屋、クリーニング屋など昔からの店が多い。北野家もこの辺りだったのだろう
これに対し、「竹ノ塚」の発展は戦後の高度成長期における団地建設を待つが、団地が集まる街区は整然と区画整理が行われた。「西新井」駅東側の環七通りからまっすぐ北へ伸び、竹の塚団地を南北に貫く“竹の塚センター通り”は、その象徴と言えるだろう。「西新井」と「竹ノ塚」、同じ足立区の隣同士でありながら、主に“戦前”の西新井、“戦後”の竹ノ塚と、開発年代の差による違いがはっきりと出ており、東京郊外の発展の年輪を辿るかのようだ。ただ、現状の“竹の塚センター通り”は、環七通りとの交差点でプツリと途切れ、その先は「西新井」駅東口の混然とした街に飲み込まれてしまっている。いかにも造りかけに見える“竹の塚センター通り”がどうなっていくのかは、次節をご覧いただこう。
▲まっすぐに伸びる“竹の塚センター通り”。「西新井」駅周辺とはだいぶ違った雰囲気になる
「西新井」東口 周辺のマンション
3.西新井のこれから
西新井駅西口“TOSCA”の建替えが進行
長らく「西新井」の顔の役目を果たしていた西新井トスカ西館。今でいう“駅直結タワマン”と“下駄履き商業施設”の先駆けであり、1973年に西口駅舎および11階建賃貸マンション“東武西新井駅西口サンライトマンション”と一体に建てられたものだ。追って1981年には東口にも“西新井トスカ東館”および“東武西新井駅東口サンライトマンションB棟”が建てられ、こちらは隣のA棟(駅直結ではない)と合わせて分譲マンションとして竣工。東西のトスカおよびサンライトマンションは駅舎を兼ね、改札口は東西のトスカの連絡橋としても機能する、まさに東武鉄道のフラッグシップである複合施設の様相を呈していた。今や各地に駅直結のタワマンや商業施設が存在しているが、40~50年前の段階で「西新井」にその先駆けが誕生していたことは注目に値する。
▲東口側の“トスカ西新井東館”と一体となった“東武西新井駅東口サンライトマンション”。
しかしながら、45年という月日を経るうちに建物の老朽化が進行したこと(大地震で倒壊する危険性がある“要緊急安全確認大規模建築物”に指定されたのが決め手となった)、エレベーターこそ店内には設置されていたが駅専用のものがなくバリアフリーが不十分であったこと、2007年に西口側へ“アリオ西新井”がオープンし客数に陰りが出たことなど様々な事情が重なり、2018年7月1日を以て西館は閉店。まずは喫緊の課題となっていたバリアフリー問題を解決すべくトスカ西館の南半分(旧・東武ストア西新井店部分)を解体し、跡地に仮設エスカレーター・エレベーターが整備され、2022年9月から供用を始めている。現在は残る北半分の解体に向けた準備が進められているところだが、単純にトスカ部分だけを解体してしまうとサンライトマンションは“駅直結”という付加価値を失うこととなり、賃貸マンション部分とどう調整するのかは決まっていないようだ。
▲仮設エスカレーター・エレベーターが開設されたばかりの西口。左側にはトスカ西館の未解体部分が残る。
前段に収めきることができなかったが、URによる駅西口再開発“ヌーヴェル西新井”とは別に、自社の西新井工場を南栗橋(埼玉県久喜市)へ移転させた跡地を分譲マンション“リライズガーデン西新井”に生まれ変わらせている(2009年竣工)。リライズガーデンの東端は「西新井」駅よりも隣の「梅島」の方が近く、「梅島」駅から高架下に沿って“リライズロード”なるアクセスルートが設けられているほど。
▲ほぼ1駅間にまたがって建つ“リライズガーデン西新井”。全長400mに及ぶ
リライズガーデンの誕生は日清紡跡のレコシティやザ・ステージオとほぼ同時期であり、ほぼ同時期に大規模マンションが次々に誕生したことになる。このリライズガーデンの成功で自信を得た東武鉄道は、東京スカイツリーの開業(2012年)に合わせてマンションブランド“ソライエ”を立ち上げ(2012年)、東武線沿線を中心にマンション供給を積極的に行うようになっている。今となっては西新井が“ソライエ”でないのが不思議なくらいだが、“ソライエ”誕生のきっかけこそ、西新井工場跡地再開発によって生まれたリライズガーデンだったのであり、順番が逆なのだ。
▲“リライズガーデン西新井”に沿う“亀田トレイン通り”。車両工場丸ごと使っているだけあって、南北にかなり長い
東武鉄道としては、東武ストアおよびトスカ西館部分を建て替える予定である旨、足立区に対して報告しているというが、昨今のトレンドを踏まえるに、単純な店舗建て替えというよりは、やはり初代トスカのように駅・商業施設・マンションを一体とした複合開発とするのが理想ではないかと思う。現状の仮設出入口は微妙に既存改札口と段差があり、既にトスカ建て替え後のモジュールと合わせているのではないかと思われる。東武鉄道にとって西新井が足立区内の重要な拠点であることに変わりはないだろうし、次の50年の“西新井の顔”を東武鉄道がどうするのか、気になるところだ。
▲「西新井」駅西口すぐ先の小型商業施設“パサージオ西新井”。“ちょっと寄り道”に便利な立地。
「西新井」駅周辺 10-20年代 マンション紹介
▲2023年3月時点で西新井最新のマンション“ヴェレーナシティ西新井”。「西新井」徒歩14分。
補助255号線・西新井公園は実現するか?
環七通りでプツリと途切れている“竹の塚センター通り”だが、正式には“補助255号線”という。この補助255号線、東へ弧を描くように延伸し「梅島」駅北口へ繋ぐ構想があるのだが、長いこと実現していない。というのも、この補助255号線に沿って“西新井公園”という5.6haもの広大な都市公園を整備する計画があるのだが、それがなんと80年前から足踏みを続けてしまっているためだ。
▲旧日光街道に面した「梅島」駅改札口。この左手前側に道路をつなぐ計画がある。
西新井公園は戦中の1942年に“防空緑地”に指定され、建築に制限が加えられるようになったのが起源である。これは、東武線東側に木造家屋の密集地域が広がっており、ここがひとたび空襲(火災)に見舞われると、東武線西側の日清紡および東武鉄道西新井工場に延焼し、戦争遂行にあたり甚大な影響が出かねないと判断されたためと考えられる。戦後、舎人公園(足立区)や水元公園(葛飾区)、砧公園(世田谷区)など、土地取得が終わっていた防空緑地は都立公園に姿を変えていったが、西新井は既に建築物が密集していたために確保ができず、特別都市計画法(1946年成立、1968年都市計画法成立により廃止)による“緑地地域“に引き続き指定。西新井公園が特異なのは、1957年に“緑地地域”に重なる形で公園整備の都市計画決定を受け、追って1966年には西新井公園を貫く形で補助255号線の道路整備の都市計画決定を受けている。このため“緑地地域”の根拠法を1968年に失ってからも、現在に至るまで建築が制限され続けている。これが「西新井」駅東口一帯に細く入り組んだ道が多い要因の一つになっている。
▲足立区HPより。「西新井」駅東口は殆どが緑色線(幅5.5m未満)。細い道が入り組んでいる様子がわかる。
しかしながら、もはや既成市街地における5.6haもの土地取得は容易でなく、西新井公園および補助255号線の整備は遅々として進まず、現在に至るまで虫食い状の用地が点々とみられる程度しか進んでいない。この現状を見据えて足立区では公園の整備範囲縮小に舵を切り、2022年には補助255号線が西新井公園を貫く形であった計画を補助255号線の西側(『西新井』駅側)に収まる形へ縮小、面積を5.6ha→3.5haとすると発表している。足立区が公表している住民アンケートでも、避難場所が少ない、狭隘路が多いといった地域の課題は地元も認識するところであり、西新井公園および補助255号線の早期整備によってそれら課題を解決するという区の方針は、概ね賛同を得られているようである。
▲足立区HPより。緑色部分が西新井公園予定地。この範囲に限れば半数弱程度が確保済みになっている。
ただ現状を見る限り、公園はともかく補助255号線の開通には相当の時間を要すると見るべきだろう。「梅島」駅周辺および東武線線路沿いなどの一部では、工場が平面駐車場や暫定利用施設(保育所)に変わったり、“梅島西公園”として開放されていたりと、少しずつ用地確保がなされているものの、いまだ環七通り交差点から南側の大部分では住宅が密集し、完成後の姿が見えてきたと言える状況にはない。補助255号線以外にも「西新井」駅周辺は未整備の道路計画が多く、足立区内でも道路整備や避難場所の整備が遅れているエリアとなってしまっており、早期の整備が望まれる。
▲“ビューネ梅島駅前”と、暫定利用と思われる保育所。保育所の敷地は道路用地に含まれる。
日清紡や東武鉄道の工場跡地整備が佳境を迎えつつある西口側に対し、東口側はイオン西新井店やトスカ東館(東武西新井サンライトマンション)も開店から40年以上を経過し、そろそろ“次なる50年”を考える段に来ている。足立区による“西新井公園周辺地区まちづくり構想”でも“土地の高度利用等による都市機能の充実”・“西新井駅へのアクセス性や交通結節機能の充実”を目指し、“西新井駅周辺では商業施設等の誘導や交通広場の整備を図ります”としている。現状、東口はこれら2つの大型建築がドンと構えており、駅前広場も急行停車駅にしては小さく、イオンの駐輪場の方がよほど広いという状況。
▲“東武西新井東口サンライトマンション”(1980年築)。3階部分に駅舎が接続し、一体の構造になっている。
同じく地上駅だった隣の「竹ノ塚」が2022年3月に高架化を達成して面目を一新したのに対し、「西新井」はエスカレーターがない(バリアフリー化のためエレベーターは後付けで整備済)など、今となっては古びた駅設備と、乗降客数の多さが釣り合っていない。すぐ北を環七通りが高架で跨いでおり、「竹ノ塚」と違い解消すべき踏切もないので駅高架化は現実的ではないが、イオン・駅舎・駅前広場を一体で整備しなおす時期に来ているように感じられる。同じ足立区内でも東京メトロ千代田線「綾瀬」や京成本線「千住大橋」では駅前再開発・タワーマンション建設が盛んになってきているが、西新井公園や補助255号線の開通と共に、この波が「西新井」へ及ぶ日はそう遠くなさそうだとも感じる。
▲東口駅前。駅前広場はごく狭く、タクシー乗り場もない。
“都会と田舎が絶妙に同居して、だから足立はおもしろい”
西新井を歩いてみて感じたことは、大東京の激流の中で揉まれてきた街なのだな、ということだった。元々は西新井大師總持寺の門前町としてはじまり、明治時代の駅開設により大工場が複数立地する工業都市の顔を持つようになり、戦後は田畑が相次いで住宅団地に姿を変え、近年では西口の工場跡地が大規模マンションとして再開発され、東口もそれに続こうとしている。時代によって街の役割をどんどん変えながらも、門前町由来の情緒や、北野兄弟が幼少期を過ごした時代から続く旧日光街道の商店街はなお健在だ。
▲西新井大師總持寺の山門。有名寺院らしく、大きく立派な構え。
北野氏といえば「何言ってんだ、バカヤロウ、コノヤロウ」「あれだろ、おめえ」といった下町言葉だ。当然、これらは“標準語”ではなく“東京弁”である。北野氏が過ごした職人気質の街、かつての島根町がこれらを育んだのは言うまでもない。西新井には、浅草に端を発する“下町の血”が今も流れているのだろう。北野氏自身浅草に生まれ、父に連れられて西新井に育ったからこそ、“東京弁”を継ぐ者の筆頭になったわけだ。戦後もなお“下町気質”が失われなかったのは、精神的支柱としての西新井大師總持寺(北野氏は今も“大師様”と呼ぶ)の存在がやはり大きかったのではないだろうか。
▲西新井大師總持寺の“心字池”。境内には他にも“御手洗池”があり、“西新井”の名に違わず水に恵まれる
北野武氏の兄、北野大氏(秋草学園短期大学学長)は今も伊興(いこう。『竹ノ塚』駅西側)にお住まいだといい、北野武氏自身も「足立区バンド」を率い、「足立田チン平」「足立ディスタンス」などの足立区ネタを披露し、足立愛を惜しまない。北野兄弟の母は近所の子どもも含めてよく面倒を見たといい、北野武氏自身も“たけし軍団”の世話をし、北野大氏も80歳を過ぎた今もなお教育者として活動を続けている。その愛の根底にあるのは、下町ならではの“おせっかい”だと両氏は語っている。活気ある西新井の街並みを見れば、その“おせっかい”が今なお受け継がれているのはよくわかる。
▲西新井大師道・三栄通り商店街。夕方ともなると、駅から帰ってくる人の流れでいっぱいになる。
西新井大師總持寺の長い歴史、浅草ルーツの下町人情、今も残る細い路地、そして大規模団地や大規模マンション開発。様々な要素が綯い交ぜ(ないまぜ)になり、様々な人々が行き交う「西新井」駅前。“ああ、北野氏の言う『都会と田舎が絶妙に同居して、だから足立は面白い』っていうのは、こういうことか”と、夕暮れの「西新井」駅へ戻る道すがら、妙に納得したのだった。
▲夕暮れのさくら参道。“お大師さま”と西新井の街は、今後も車の両輪の関係であり続けるのだろう。
※特記以外の画像は2023年2月筆者撮影。マンション図書館内の画像は当社データベース登録のものを使用しています。無断転載を禁じます。
※本稿執筆にあたり、以下の記事から一部引用、および執筆の参考にしています。
(最終閲覧:2023/03/20)
賃貸不動産経営管理士
佐伯 知彦
大学在学中より郊外を中心とする各地を訪ね歩き、地域研究に取り組む。2015年大手賃貸住宅管理会社に入社。以来、住宅業界の調査・分析に従事し、2020年東京カンテイ入社。
趣味は旅行、ご当地百貨店・スーパー・B級グルメ巡り。
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