記事検索

暮らす

2022.12.24

白洲信哉 住まい考1

白洲信哉 住まい考1

 僕は昭和40年東京青山で生まれた。無論、記憶以前のことだが、記憶の始まりは青山の賃貸マンションから、祖父次郎が新築した赤坂の小さなビルに移ってからだ。 
 昭和41年まで未だ町名として残っていた「赤坂台町」は、まさしく地名のままの「台町」だった。わが家外食定番の蕎麦屋や、今は建て替えられた旧TBS会館地下のカレー店に見附の駅、青山通りからなど、四方どの道からでも帰りは坂の上の家だった。
 中でも三分坂は傾斜12度、しかもL字に折れている激坂だ。当時は小さかったから尚更、下から見上げるようで、坂下に「急坂のため、通る車賃が銀三分増したため」という由来書きがある。

 住まいを考える上で地名や由来といった歴史こそ、考慮に値するべきことだと僕は思う。文明の発達によりそのまま当てはまるわけではないが、現在の住まい「池尻」は池の尻、端っこであり「三宿」は水の宿、つまりはこの辺りは湿地帯だったことが想像できる。

 

 東京には古くからの地名が残っていて、先の台町から通ったのが、港区立中ノ町幼稚園(現赤坂中学校内)と向かいの港区立檜町小学校だった。台町と同じく中ノ町、赤坂檜町とも昭和41年まで町名として残っていた。この一帯は江戸期から武家屋敷が立ち並び、長門萩藩毛利藩邸(現東京ミッドタウン)に檜の木が多くあったことから「檜屋敷」の俗称からその名がついたという。

 今では芝生に整備され、また桜などが植わってすっかり面影ないが、昔ながらの町名を残すことは非常に大切なことだと思う。

 地名が歴史であり、何々丁目との変更は歴史を葬る行為だと強く思う。今からでも遅くない。あんな一瞬で終わるオリンピックをレジェンドと言うなら、旧町名の復活こそ本物の伝統で住まい選びの足かがりにもなり得ると思う。

 さて、僕はそのビルに小学校2年生まで暮らし、週末になると引っ越し先の鎌倉から、現在は「武相荘」と呼ばれている東京郊外の祖父母の家に遊びに行くことが習慣だった。

 当時、鶴川までの道のりは未舗装の所も多く、車にしたら過酷な道だが、僕は沢山の通称「がたがた道」にかかると、心躍らせ喜んだ。ようやくたどり着いた鶴川は、まだ、人家も少なくのどかな寒村で、祖父母が太平洋戦争の疎開先として購入した農家は広く、一部茅葺屋根が残っていた。春には蕗の薹やツクシを摘んだり、竹の子を掘ったり、秋になれば栗を拾い、柿の木に登って実を取ったりして遊んだ。

 

 祖父母の暮らしは「和魂洋才」とでも言うのだろうか。古い農家の土間にはタイルを貼り、その下にはお湯の通る配管を通していた。欧米住宅にあるセントラルヒーティング風の手作り床暖房の上には、吉田茂元総理形見の大きなソファーが据えてあり、寝室もまた板張りにベットだった。が、その隣には昔ながらの囲炉裏を残し、冬の来客時には炭をおこし鍋や肉を焼き給し、普段の食卓も椅子の生活だった。

 都市と地方に、現代設備を加味した古民家。どちらか一方に偏るのではなく、多元的な視点は暮らし易い住まいを考える上で大切なことではないだろうか。

 

白洲信哉(しらすしんや)

文筆家/アートプロデューサー

白洲信哉(しらすしんや)

1965年東京都生まれ。細川護煕元首相の公設秘書を経て、執筆活動に入る。その一方、広く日本文化の普及につとめ、書籍編集、デザイン、展覧会などの文化イベントの制作に携わる。父方の祖父母は、白洲次郎・正子。母方の祖父は文芸評論家の小林秀雄。主な編著書に『骨董あそび』(文藝春秋)、『白洲次郎の青春』(幻冬社)『天才青山二郎の眼』『小林秀雄 美と出会う旅』(新潮社)『白洲家としきたり』(小学館)『かたじけなさに涙こぼるる』(世界文化社)『旅する舌ごころ』(誠文堂新光社)他多数。最新刊に『美を見極める力』(光文社新書)。

自分に送る / みんなに教える

おすすめ資料 (資料ダウンロード)

関連記事

住替えストーリー 「等価交換がもたらした、親との同居」

住替えストーリー 「等価交換がもたらした、親との同居」

住替えストーリー  「大人の事情」を「自分の理想」に転化していく

住替えストーリー  「大人の事情」を「自分の理想」に転化していく

新築分譲マンションでも地震保険は必要になるの?

新築分譲マンションでも地震保険は必要になるの?

「天井から花!意外性のある飾りつけ」

「天井から花!意外性のある飾りつけ」

観葉植物の効果、鉢カバーを自由な発想で!

観葉植物の効果、鉢カバーを自由な発想で!

住替えストーリー 「美田を残す」

住替えストーリー 「美田を残す」

カテゴリ