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更新日:2024.07.18
登録日:2024.07.19
妙典駅・行徳駅①歴史編――“行徳千軒、寺百軒”…地下鉄開通がもたらした“寺町・塩の町”から住宅地への大変革(千葉県市川市/東京メトロ東西線)
千葉県市川市・行徳。「行徳千軒、寺百軒」といわれるほど寺院が多い、江戸時代以来の寺町である。東京周辺の寺町といえば「浅草」「川崎大師」「鎌倉」「成田」といった著名な大寺院の賑やかな門前町が思い浮かぶが、“谷根千”として有名になった“谷中”をはじめ「雑司が谷」など、数多くの寺院が密集する静かな寺町も案外と多い。そして今回紹介する「妙典」「行徳」も、知る人ぞ知る静かな寺町、そして塩の産地として知られ、東京メトロ東西線の開通を機に住宅地として発展した街である。
そして、「行徳」に続くのが「妙典」だ。「妙典」駅は東西線で最も新しい駅であるが、2000年の駅開業からおよそ四半世紀を経て、駅開業当初のような開発ラッシュこそ落ち着いたものの、今なおマンションを中心に新しい住宅が建ち続けている。今では「行徳」も「妙典」も東京のベッドタウンとしての歩みを重ねているものの、ここに至るまでに寺町、漁師町、塩づくりの町、そして住宅地への転換と、まさに“激動の時代”を経てきた。今回は、そんな知られざる寺町「行徳」「妙典」の歩みにスポットを当ててみたい。
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1.妙典・行徳の歴史
“行徳千軒、寺百軒”と呼ばれた寺町
「妙典」の歴史を語る前に、まずは隣の「行徳」について知っておく必要がある。「妙典」という一種独特な地名も「行徳」に由来するものであり、その「行徳」を象徴する表現が“行徳千軒、寺百軒”というもの。「行徳」も「妙典」も寺院=仏教に由来する地名であり、行徳の寺町を抜きに妙典を語ることはできないのだ。そう言われてみると「行徳」も「妙典」も、どことなく“修行”とか、“道徳”とか、“経典”とか、どことなく仏教らしい要素を感じられないだろうか。そして「妙典」駅西口から北西、旧江戸川に向かって一直線に伸びる道を“寺町通り”といい、道中には行徳の寺町で最も大きな寺院“浄土宗海巖山徳願寺”(じょうどしゅう かいがんざん とくがんじ、以下“徳願寺”とする)が構えている。この徳願寺を中心として発展したのが、現代に続く“行徳の寺町”なのだ。
▲徳願寺。寺院が多い行徳・妙典の中でもひときわ広大な境内を有し、“寺町通り”“寺町公園”など地域の通称にもなっている。
「行徳」の由来は、“金海法印”という修験者が、その徳の高さから“行徳さま”と呼ばれていたからという。一説によると金海法印は1527年(大永7年)、江戸川の中州に伊勢神宮の土砂を運んで祀り“神明神社”を建立し(本行徳に“行徳神明神社”として現存)、土地の開発に努める傍ら、人々に教えを説いて回ったという。行徳の村人も“行徳さま”にあずかって“修行を積む”→“功徳(くどく)を積む”→“徳を行う”べく、“行徳千軒、寺百軒”の寺を巡礼するほど、信仰が厚かったそう。徳願寺を中心として栄えた行徳の中心こそ「妙典」駅北西の“本行徳”というわけだ。徳願寺自体も、1600年に“普光院”として創建したのち、1610年に江戸に入ったばかりの徳川家康による保護を受けて名を改めたもの。後述する“行徳塩田”と共に徳川将軍家のあずかる天領となり、大いに栄えることとなった。また「妙典」も、北側4kmほどに位置する日蓮宗の大本山“法華経寺”(中山法華経寺)の経典“法華経”をたたえ、“妙なる典”(妙=不可思議なほどすぐれている。巧みである。きわめて美しい)ということで付いた地名と云われる。これは推測に過ぎないが、法華経寺の寺領だったのだろうか。
▲行徳駅前公園の掲示。「行徳」の由来である“金海法印”上人の紹介が記してある。
行徳は成田山参詣の拠点としても栄えた。江戸の町衆の信仰が厚かった成田山新勝寺だが、江戸(日本橋)から成田山へは多数の川を渡る必要があり、陸路のメインルートであった佐倉街道は日本橋―(日光街道)―千住大橋【隅田川】—(水戸街道)―中川橋【中川】—新宿(にいじゅく:葛飾区)―小岩市川の渡し【江戸川】―・・・とかなり北側へ迂回する必要があり、日本橋—市川で約20km、目的地の一つであった葛飾八幡宮までで約23kmの道のりであった。現代のJR総武線快速は「新日本橋」―「市川」をほぼ一直線に14.2km、約15分で結んでいるが、およそ6kmの遠回りである。江戸時代に人が一日に歩く距離は約30~40kmであったというから、日本橋から市川まででも半日か一日コースであった(40km歩くには夜明け前に出発する必要がある)。それでも渡し賃を払い、舟を雇う(しかも船頭が此岸にいるとは限らない)渡し場を辿って最短経路を辿るよりは、隅田川・中川の橋がある千住大橋まで北上してから南下する方が良く、江戸時代の川越えがいかに難儀なものであったかがわかるだろう。
▲小岩市川の渡しに設置されていた常燈明(常夜灯)。千住の成田講により寄贈されたもので、繋がりが分かる。
そこへ江戸の舟運の発達により小名木川・新川という人工河川が拓かれ、従来から河港としても発達していた行徳まで、東京湾に出ずに江戸川と往来できるようになったことで、日本橋—小名木川—新川—江戸川—行徳河岸(かし)という航路が確立した(約12km)。行徳から葛飾八幡宮まではわずか4kmと、歩く距離を約20kmも短縮でき、かつ舟運は時速5~10km/hと徒歩の4km/hより早く、日本橋—行徳を2~3時間で結んだことから、江戸時代後期には船賃はかかったものの成田詣の一般的なルートとして定着したという。日本橋への船が出る河港は“行徳河岸”と呼ばれ、行徳河岸には成田講(成田詣を説く信徒集団)による常夜灯が灯ったというから、往時の繁栄ぶりが偲ばれる。行徳河岸には現在も常夜灯が残っており、市川市の手により“常夜灯公園”として整備され、江戸の雰囲気を伝えている。
▲行徳の常夜灯公園。かつては江戸・東京へと向かう舟がひっきりなしに発着する行徳の玄関口だが、現在は地域住民の憩いの場となっている。
塩田の町だった行徳・妙典
「行徳」は塩の産地としても有名であった。現在でも“塩焼(しおやき)”、“本塩”(ほんしお)、“塩浜”といった“塩”がつく地名が残るほか、明治期の地図でも海岸部に塩田が広がっていたことがわかる。日照が江戸市中と変わらない行徳の塩田は、海水が塩の結晶になるまでの連続した日照時間が得られないことから、海水を塩田で蒸発させて塩分濃度が高い海水をつくり、それを煮詰めるという方法で作られた。製塩の中心だったのが“本塩”で、塩の焼き場が“塩焼”の由来と考えられよう。行徳の塩田は農地の干拓・埋立てと共に海側へと移動していったが、その名残として今も海岸部に“加藤新田”という地名がある。もちろん一般的な稲田ではなく、ここも塩田であった。“行徳塩田”は行徳を越えて浦安~船橋に至る総称となり、江戸城から最も近い塩の産地であった行徳は“万一の籠城に備える”ための天領となり、幕府による手厚い庇護を受けて発展した。
▲行徳駅前に設置されているレリーフ。行徳の塩づくりは江戸時代から知られ、岩槻(埼玉県)など内陸にも運ばれた。
しかしながら天候に左右されやすく、日照時間も瀬戸内などに比べて短いために製塩の効率が悪かった行徳の塩田は、鉄道や海運の発達によって輸送面の不利を克服した瀬戸内などの“十州塩”に取って代わられ(その代表が愛媛県・伯方島で生産される“伯方の塩”)、明治期には稲田に転換されていった。その瀬戸内の塩田も、製塩法が近代的なイオン交換膜製塩法へ移行したことで、1972年にごく一部の観光用を除いて全廃されている。行徳の塩田で作られた塩は、行徳河岸から“行徳船”と呼ばれる舟に乗せられて日本橋まで運ばれ、日本橋からの帰りには成田詣の旅人を運んだ。成田への短絡ルートだったとはいえ「行徳」からはなおも40kmの旅路であったため、なかには不精して行徳の徳願寺の参拝で済ませてしまい、そのまま舟で帰ってしまう者もいたという。落語に出てきそうなテーマだが、そのくらい徳願寺が立派だったということでもあるだろう。
▲同レリーフから。地図中の赤枠で示された範囲がすべて塩田だった。現在は都市化され、全く残っていない。
行徳河岸と佐倉街道を結ぶ道は“行徳街道”と呼ばれ「西船橋」の辺りで佐倉街道に合流したほか、近隣の有力寺社であった葛飾八幡宮(本八幡)や中山法華経寺(下総中山)に至る支線も“行徳道”などと呼ばれた。行徳街道、行徳河岸は成田詣の中継地であったばかりでなく、徳願寺をはじめとする寺町への参拝、そして行徳塩田の積み出しという多様な人や物の流れがあり、明治頃までは隆盛を極めた。現在も東京メトロ東西線が「行徳」「妙典」を経て「西船橋」で総武線に合流するが、かつての行徳街道と佐倉街道の関係と同じなのは、歴史上の必然だったというわけだ。
▲行徳街道。道幅も広くなく、古くからの建物が多く残る。往年の街道筋の雰囲気をよく残している。
交通の途絶、揺れに揺れた市川市合併
1889年(明治22年)、それまで江戸期以来の村々を引き継いでいたのを町村制施行とともに合併し、東葛飾郡行徳町が成立。この頃の行徳町の中心部は江戸期以来の“本行徳”であり、「妙典」から江戸川沿いの東西線「原木中山」、京葉線「二俣新町」周辺、および「本八幡」近くの“大和田”など、総武線南側の広大な範囲を占めており、現在の東西線「行徳」「南行徳」周辺は“南行徳村”(1937年より南行徳町)であった。つまり「妙典」こそ行徳の中心であり、「行徳」は南行徳村も含む広大な地域名、「妙典」は“本行徳”周辺のやや小さな範囲を示す地名として使い分けられていた。明治期の千葉県に市はなく、浦安や中山(下総中山)など周囲の殆どが村だったなか、市川・八幡(本八幡)・船橋と並んで町制を敷いたところに、行徳の繁栄が見て取れる。前後するが、1871年(明治4年)11月には千葉県の前身の一つ“印旛県”(いんば―)が発足し、県庁が徳願寺へ置かれたこともある(2か月後に現・流山市へ移転、1873年に千葉県発足により廃止)。一時的とはいえ、県庁が置かれるほど徳願寺は立派なものであったし、それほどまでに行徳の中心性が高かったということがわかる。
▲徳願寺の鐘楼。江戸時代以来のもので、赤い山門・経蔵と共に市川市指定文化財となっている。
ただ、1894年の総武鉄道(現・JR総武線)開通、1905年の市川橋(国道14号京葉道路)架橋以降は千葉県の主要な交通から外れ、加えて1919年には江戸川の洪水防止のため“江戸川放水路”が開削されたことで、市川・船橋方面と陸続きでなくなり、島状の交通不便地になってしまった。東京方面にわたる浦安橋の架橋は1940年を待たねばならず、鉄道・道路の発達により舟運も衰微し、外に繋がるのが江戸川放水路にかかる行徳橋ただ一本という袋小路になったこの頃の行徳は、江戸時代の繁栄から一転、最も苦しい状況に追い込まれたと言えるだろう。現在の市川・船橋市境が江戸川放水路ではなく「原木中山」周辺をのたくるように蛇行している(このため区画整理が殆ど進んでいない)のは、もともとこの川が無かったことによるもので、現に江戸川放水路で隔てられた対岸にも“上妙典”の地名が現存している。
▲市川市中心部と行徳地区を結ぶ行徳橋。この橋が跨ぐ江戸川放水路は、明治まで存在しなかった。
この状況に追い打ちをかけたのが、頻発した高潮である。海岸近くの低地だった行徳は、塩田や沿岸漁業(ノリやアサリ、ハマグリ等)という海の恵みこそあったものの、同時に台風などによる高潮に悩まされる地であった。塩田の衰退で稲田に転換されていったものの、一度でも海水を被ると塩害でその年はもう採れず、翌年以降も土壌に塩分が蓄積して稲が生育不良になる…という悪循環に陥ってしまう。行徳の農家は高潮との戦いで収入が不安定だったため、小規模な塩田を継続して保有し、不作時の糊口を凌いだという。特に1949年8月のキティ台風の直撃は東京湾の満潮と重なったため3.15mもの高潮となり、甚大な被害を受けている。復旧の過程で、行徳に残った最後の塩田は廃止されることとなった。
▲現在も海岸部で埋立が進められている。周囲は江戸川第一終末処理場の焼却炉などがあり、公園の整備も進む。
この間、1955年に行徳町は市川市へ合併。追って1956年には南行徳町も合併している。浦安町の合併も一緒に検討されたというが、浦安は単独での生き残りを選び、その後東京ディズニーリゾートを有する日本屈指の豊かな市にまで発展しているから、運命の分かれ道だったと言えるだろう。もしこの時に市川市になっていたら、浦安に“生き残りを懸けたディズニー誘致による起死回生”というアイデアも湧かず、東京ディズニーリゾートは今の場所になかったかもしれない。今となっては同じ東西線沿いの浦安市(当時は浦安町)と行徳で分かれているのが不思議なほどだが、かつて天領だった寺町というプライドを持つ行徳と、生粋の漁師町たる浦安では、当時の住民間の折り合いも悪かったのではないだろうか。とはいえ合併直前の1951年には“浦安町・南行徳町組合立葛南病院”を設置したりと、真っ向から反目しあっていたわけでもない(現在の東京ベイ・浦安市川医療センター)。
▲東京ベイ浦安市川医療センター。“浦安町・南行徳町組合立葛南病院”に端を発する。2012年から新病棟の使用を開始した。
なぜ基幹産業を失い、豊かとはいえなかった行徳町・南行徳町が古くから栄える市川市と合併したかといえば、東京湾沿いに京葉工業地域の建設が進められていたため。お隣・船橋市と違い、旧・市川市は東京湾に面しておらず、行徳町・南行徳町を合併しないことには埋立地の拡大による市域拡張、工業地域の発展による税収増が見込めなかったのだ。とはいえ、歴史ある寺町の本行徳(妙典)周辺、地理的に近い船橋市との合併を望んだ原木(ばらき=原木中山)周辺、市川市との合併に積極的だった大和田(本八幡)周辺で意見の集約は難航。合併反対派の町長室乱入騒動が起きたほか、住民投票の末わずか58票差で市川市合併が決まったというから、戦後の高度成長期を前に町のこれからを考えるにあたり、地域全体が揺れに揺れ、時に対立が起きていたのは間違いない。浦安でも“黒い水事件”(1958年に江戸川上流の本州製紙江戸川工場から未処理の廃液が垂れ流され、浦安周辺の沿岸漁業に壊滅的な打撃をもたらし、結果的に漁業権放棄へと舵を切るきっかけとなった)が起こったように、高度経済成長の大波の中で、江戸時代以来の町の存立基盤が揺らいでいたのである。
▲「原木中山」近くにある“原木山妙行寺”(ばらきさんみょうこうじ)。江戸川放水路が無かったため、対岸の原木中山側にも寺院はやはり多い。
東西線「行徳」開業で起死回生、住宅地への転換
交通の途絶から行徳を救ったのが、1969年の営団地下鉄(現・東京メトロ)東西線「東陽町」―「西船橋」開通であった。この区間は殆どが“地下鉄”なのに地上(高架)区間であったのに加え、快速運転を重視するダイヤという、“地下鉄”としては異例づくめの路線となった。「東陽町」―「西船橋」ノンストップの快速が10分毎、「行徳」などに停車する各駅停車も10分毎で、都心部は快速・各駅停車を合わせて5分毎というダイヤだったが、これほど快速を重視したのは、1969年当時は総武快速線が開通しておらず殆どが各駅停車で、乗車率が300%を超えるパンク状態であったため。総武快速線の建設が進んではいたものの、一刻も早く総武線の混雑を緩和するため、総武線沿線に比べ人口も少なく、陸の孤島と化していた行徳周辺を一直線に貫くバイパス路線として、東西線の建設が急がれたのだ。快速を重視するダイヤとなったのも、総武線経由に比べて所要時間で劣らぬようバイパス効果を高めるために他ならない。東西線開通による混雑緩和効果は大きく、1969年の総武線各駅停車の混雑率は前年の307%から255%、東西線開通から3年後、1972年の総武快速線開通で223%まで低下した。
▲「行徳」を発車する東西線・妙典行き。総武線に遅れること75年、行徳に待望の鉄道が開通することとなった
東西線沿線は殆どが未開発の農村・漁村ばかりであったため、「東陽町」-「西船橋」15kmの間には「南砂町」「葛西」「浦安」「行徳」「原木中山」の5駅しかなく、平均駅間距離は2.1kmという長さであった。江戸川放水路を跨ぐ「行徳」―「原木中山」は3.4kmにわたり駅が無く、文字通り“何もない”田園地帯を高架線が一直線に貫く当時の写真からは、とても今日の都市化が進んだ街と同じ場所とは思えないほど。開業初年、1969年の「行徳」の乗降客数は4,068人、「原木中山」も3,552人と、東西線地上区間の中でも他の駅は1.4~1.6万人の利用があったなか、旧行徳町・南行徳町の2駅はとりわけ利用が少なかった。各駅停車はラッシュ時でも10分毎にしか走らず、快速の方が多かったというから、沿線利用の少なさが察せられる。
▲江戸川放水路を渡る東西線。河口付近を走るだけあって、東西線はいくつもの鉄橋を渡っていくのが特徴だ
しかし、行徳の町に東西線が与えたインパクトの大きさは、地名からも想像できる。その象徴が「行徳」駅周辺に広がる「行徳駅前1丁目~4丁目」という住所だろう。「行徳」駅は旧行徳町の中心部だった“本行徳”から外れた旧南行徳町内の行徳町寄りに位置し、開業当時にあったものといえば、行徳街道沿いの既存の集落と、宮内庁新浜鴨場(しんはまかもば…明治26年開設。伝統的鴨猟の技術維持・保存を行っており、外国賓客の接待にも用いられる。天皇陛下が皇太子時代、当時外務省職員だった皇后陛下にプロポーズした場として有名)くらいで、あとは農地が広がるばかりであった。ここが突然“駅前”になったのだからインパクトはすさまじく、駅を南北に貫く道路が設けられると共に区画整理が進み、沖合の埋立も進められた(塩浜・千鳥町)。区画整理が行われた駅周辺を“本行徳”に代わる中心地として“行徳駅前”と名付け、これからの発展を祈念した気概を感じられる。ちなみに“駅”がつく住所は東京都内には全くなく、千葉県内でも他に“長浦駅前”(袖ヶ浦市)しかないので、“行徳駅前”の珍しさがおわかりいただけよう。“行徳駅前”はあくまで住所なので、駅から南に400mほど離れ、駅前感が薄い“行徳駅前公園”があったり、南へ1kmほど離れてもまだ“行徳駅前4丁目”だったりするのが面白い。
▲「行徳駅前四丁目」を表すものたち。特に郵便局は“駅前”というわけでもない場所なので、特徴が際立つ
ただ、東西線開通によって「大手町」まで23分という好アクセスを獲得した「行徳」に、いつまでも長閑な光景が広がっているわけがなかった。開業6年後の1975年の乗降客数は、開業時の10倍以上となる42,000人を数えた。爆発的な開発の進展により「行徳」1駅では捌ききれなくなり、利用を分散させるべく1981年に1.5km南へ「南行徳」が開業。奇しくも、市川市合併以前の旧行徳町・南行徳町と同じ「行徳」「南行徳」の名が路線図に並ぶようになった。同様に1979年「葛西」の1.2km西へ「西葛西」が開業しており、開通から僅か10年ほどで新駅が2つもできたように、この時点で“何もない”光景は消え失せた。ピーク時の1992年「行徳」の乗降客数は85,000人を数えたが、駅開業時から区画整理が進められ、計画的に市街化が進んでいったため、他地域にあるような深刻な道路渋滞や交通混雑による環境悪化は少なかったのは僥倖だった。しかし、この頃には“混雑緩和のためのバイパス路線”だったはずの東西線自体が猛烈な混雑に悩まされるようになってしまった。1996年の東葉高速鉄道「西船橋」―「東葉勝田台」開業による直通運転開始は、東西線の混雑悪化に拍車をかけることとなった。
▲1981年開業の「南行徳」。純粋な利便性向上に加え、パンク状態に近かった「行徳」の利用者を分散させる目的もあった。
「行徳」 駅徒歩5分以内のマンション
エクセレントシティ行徳駅前
「行徳」徒歩5分 市川市行徳駅前2丁目 2020年10月竣工/6階建55戸
売主:新日本建設/施工:新日本建設/分譲時平均坪単価250万円
ライオンズ行徳駅前レジデンス
「行徳」徒歩5分 市川市行徳駅前2丁目 2013年6月竣工/7階建44戸
売主:大京/施工:東洋建設/分譲時平均坪単価209万円
クレヴィア市川行徳
「行徳」徒歩2分 市川市行徳駅前2丁目 2013年8月竣工/15階建99戸
売主:伊藤忠都市開発/施工:長谷工コーポレーション/分譲時平均坪単価202万円
東西線で最も新しい駅「妙典」がもたらした変化
2000年、「行徳」から1.3km北東に新駅「妙典」が開業した。もともと車両基地への分岐点(下妙典信号所)が設けられており、将来の駅開設を見越して準備工事だけしてあったところ、「南行徳」に遅れること19年、開通からは31年、ようやく陽の目を見ることとなった。1990年代まで区画整理もされていない荒地が広がっていたというが、1998年に“上妙典”“下妙典”から独立する形で妙典1丁目~6丁目が成立、住居表示が行われた。駅の所在は区画整理エリアをわずかに外れた富浜だが、これは元々「行徳」の末端エリアとして開発が始まったことによるもの。駅開業と共に「妙典行き」の電車が走り始め、混雑が激しい東西線の中でも“始発電車があり、待てば座って都心へ行ける駅”として「妙典」はさっそく人気を博すこととなった。
▲東西線で最も新しい「妙典」。信号所の設備を一部流用しているため、改札口と駅前広場が少し離れているのが特徴。
東西線沿線地域に「妙典」を印象付けたのが、駅ロータリーに隣接して1999年にオープンした“市川妙典サティ”であった。その目玉として、当時まだ珍しかったシネマコンプレックス(以下!参照)を備えた“ワーナー・マイカル・シネマズ市川妙典”(9スクリーン2,211席の規模は当時のワーナー~社で県内最大)を併設し、3館に跨る規模と大きな立体駐車場を備え、車はもちろん電車でも気軽に来訪できる大型ショッピングモールとあって人気を博した。駅と話題のショッピングモールがほぼ直結する利便性の高さと、区画整理がされたばかりの清潔な住宅地が広がる「妙典」は、「行徳」とは対照的な住宅地として、瞬く間に発展していった。なお、サティは運営会社であったマイカルの経営破綻(2001年)によりイオンへと引き継がれ、現在は“イオン市川妙典店”となっている。
シネマコンプレックス
シネコンと略される。従来の映画館は1館1~多くて3スクリーン程度であったが、当時に多数の上映を行うべく、ロビーや売店を共有し、大小7~13スクリーン程度を組み合わせたもの。完全入替制で、1枚のチケットで複数の上映を観ることや、立ち見はできない。世界的にはマルチプレックスと呼ばれる形式。1993年のワーナー・マイカル・シネマズ海老名(7スクリーン)が発祥とされる。マイカル(サティ)と米ワーナー社の合弁で1991年に設立された「ワーナー・マイカル・シネマズ」は日本のシネマコンプレックスの草分け的存在にしてリーディングカンパニーであったが、マイカル本体の経営破綻(2001年)によりイオングループ入りし、2013年にイオンシネマに吸収された。イオンシネマは2022年現在も国内最多スクリーンを運営する。
▲駅前ロータリーに面して建つ「イオン市川妙典店」(左)と「妙典センタービル」(右)。イオンに「1」「2」とあるのは「1番館」「2番館」の意味
駅開業前後の1999~2000年、駅とサティを取り囲むように分譲された3棟の大規模マンション「ガーデナヴィル市川妙典」「ガーデナヴィルラグナ市川妙典」「ガーデナヴィルマグノリア市川妙典」は、竣工から20年以上を経てなお坪250万円以上で取引され(分譲時平均坪単価は180万円前後)、ランドマーク物件としての価値を保っている。周囲は電柱も少なく、直線的で広い街路が組み合わさり、渋滞や人混みに惑わされることもない。新興住宅地だけあって遊戯施設や夜の店も少ないが、そのあたりは下町的な雰囲気に包まれる「行徳」駅周辺とすみ分けているのだろう。
▲車庫の引き込み線から「ガーデナヴィルマグノリア市川妙典」。「妙典」のランドマーク物件の一つ。
そして区画整理エリアのみならず、徳願寺を中心とする“本行徳”にとっても、ようやく元来の中心地近くに待望の駅が誕生したことになる。ただ、もはや“東西線沿線のベッドタウン”として30年以上の時を刻んでいた行徳にとって、江戸時代以来の中心地としての“本行徳”の立ち位置は低下しており、かつて本行徳(現在のフォルテ行徳:市川市身体障碍者福祉センター)に位置した旧・行徳町役場の流れを汲む市川市役所行徳支所も、(少なくとも)1981年の時点で「行徳」駅近くの現在地に構えている。歴史ある寺町だけあって、駅開業以降多くの戸建住宅やアパートが建てられたものの、大規模なマンション開発は行われていない。しかし、駅開業は行徳に残る寺町の価値が見直されるきっかけとなり、“行徳てらまち会”の結成(2003年)により“寺町通り”や“常夜灯公園”の修景が進められたり、“行徳まちづくり協議会”の設立(2017年)により行徳街道沿いの旧神輿店のパブリックスペースとしての活用が進められたりと、“本行徳”も駅開業から20年以上を経て、徐々に昔日の賑わいを取り戻しつつある。
▲無電柱化などの修景工事が進められた徳願寺周辺の寺町通り。奥が「妙典」駅。
「行徳」 2020年以降のマンション
エクセレントシティ市川行徳
「行徳」徒歩7分 市川市湊 2021年12月竣工/6階建40戸
売主:新日本建設/施工:新日本建設/分譲時平均坪単価244万円
ウィルローズ行徳パークフロント
「行徳」徒歩7分 市川市押切 2021年8月竣工/5階建32戸
売主:グローバル・エルシード/施工:大城組/分譲時平均坪単価273万円
プレシス市川行徳ブライトテラス
「行徳」徒歩8分 市川市湊新田 2021年4月竣工/6階建58戸
売主:一建設/施工:新日本建設/分譲時平均坪単価236万円
次回予告:「押切・湊橋」(仮)架橋はどこまで進んだ? “東西線で最も新しい街”のいまとこれから
一時は江戸川放水路の開削によって島状の交通不便地となった「行徳」であるが、東西線の開通(1969)、新駅「妙典」の開業(2000)、妙典橋の開通(2019)によって交通不便地から脱却することができた。そんな「行徳」に更なる架橋計画「押切・湊橋」(仮)が持ち上がっている。現在、江戸川対岸の江戸川区「瑞江」周辺へは江戸川水門の人道橋以外に直接渡る術がなく、隣接していながら双方の交流は全く無い状態が続いているが、「押切・湊橋」の架橋はこれを打ち破るものだ。次回は、架橋計画が進む「行徳」「妙典」を歩きながら、街のいまとこれからを見てゆきたい。
▲“押切・湊橋”(仮)の対岸、江戸川区側の柴又街道。“あとは橋を架けるだけ”のところまで来ている。
▼次回▼妙典駅・行徳駅②未来編――江戸時代の風情を伝える“神輿のまち・行徳”…「押切・湊橋」を心待ちにする“東西線で一番新しい街”のこれから(千葉県市川市/東京メトロ東西線)
※特記以外の画像は2024年1月筆者撮影。マンション図書館内の画像は当社データベース登録のものを使用しています。無断転載を禁じます。
賃貸不動産経営管理士
佐伯 知彦
大学在学中より郊外を中心とする各地を訪ね歩き、地域研究に取り組む。2015年大手賃貸住宅管理会社に入社。以来、住宅業界の調査・分析に従事し、2020年東京カンテイ入社。
趣味は旅行、ご当地百貨店・スーパー・B級グルメ巡り。
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