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2023.02.06

【後編】逆風の中の“革命児”たち ~バブル崩壊後に進められた三大再開発事業~

【後編】逆風の中の“革命児”たち ~バブル崩壊後に進められた三大再開発事業~

前編に引き続き、今回は残り2つのプロジェクトである「恵比寿ガーデンプレイス再開発」と「同潤会代官山アパート再開発」を取り上げる。

前編はこちらから

「恵比寿ガーデンプレイス再開発プロジェクト」(サッポロビール)

●恵比寿ガーデンプレイス

●恵比寿ガーデンプレイス

既に役割を終えたビール工場がヒップでクールな街に変化する。今ではごく当たり前になっている。でも、当たり前だと思うことを、「いや待てよ?」と考えてみると、そこから多くの学びを得ることができたりする。

 

残念ながらこの再開発事業もバブル崩壊の影響を強く受けなければならなかった。1994年にメインのマンションとなる恵比寿ガーデンテラス壱番館が竣工している。もちろんバブル崩壊の影響が強かった時期であるから、高額物件の売れ行きは鈍かった。また、当時はデフレが大きな社会問題になっていた。金融機関は担保とした不動産の価値が著しく減少したため、多くの債権が不良化した。デフレはすぐに終わるという雰囲気がなんとなく出始めたのが1994年という年であった。当時は都心回帰が新築マンション市場で急激に起こったため、一時的にマンション価格が下げ止まったように見えたのである。しかし1995年以降もマンション価格、地価ともに大きな下落が続く。

 

「高額なマンションを保有しても価格が下がるだけ」

このような考え方が支配的であった。不動産が資産として見做されなくなった。これはバブルを生きた人間にとってはすぐに受け入れがたい価値観であり、「資産」というメニューから不動産を外すべきなのか、大いに迷った資産家も多かった。しかし社会では「不動産は保有から利用へ」というのがスローガン化された。

にもかかわらず、恵比寿ガーデンテラス壱番館は好評であった。大きな逆風という環境は「大川端リバーシティ21プロジェクト」と変わらない。大きく違うのは当時、住宅ローン金利が政策的に徐々に下げられていたため、年々住宅ローン金利が低下していたことぐらいであろう。結果的に見ると私はこのマンションの購入者は、ある意味で不器用で、自身の「財産リスト」から不動産を、特にマンションを外すことが最後までできなかった人たちなのだろうと想像する。

●1994年~2019年11月 東京23区中古マンションの平均坪単価推移(単位:万円)※東京カンテイ調べ

●1994年~2019年11月 東京23区中古マンションの平均坪単価推移(単位:万円)※東京カンテイ調べ

上のグラフは東京23区の中古マンションの平均坪単価推移である。中古マンションの価格(坪単価)は2001年の167.6万円で一度底を打って以降反転する。2004年と2005年も連続で下落するがその後再び反転上昇に転じ、一時期の調整局面(リーマン・ショックと東日本大震災による下落)を除けば、ほぼ上昇を続けている。

 

将来的なことはわからないのが世の常である。日本における相対的な東京都への人口集中が進んだため、東京のマンション価格は上昇を続けている。現在マンションを資産として見ていない人はほぼいないと言っても良い状況だ。実需層もマンションの資産性を重視し駅近や都心へのアクセス重視の消費行動を取る時代となっている。

 

恵比寿ガーデンテラス壱番館の価格推移を平均坪単価で見ると、1999年以降中古事例が複数出るようになるが1999年から2001年にかけても依然として東京都はデフレ期であったにも拘わらず、この物件からは新築分譲時の坪単価507.4万円を上回る坪単価で売りが出ている。リーマン・ショック後に一時分譲時の坪単価を下回る水準で推移したものの、2015年以降は再び分譲時の坪単価水準を上回るようになり、現在は坪600万円を超える水準で推移している。既に1994年の分譲・竣工から25年の月日を経ている。築25年を超えて分譲時よりも20%以上の高値で流通するまさにヴィンテージマンションである。

 

恵比寿ガーデンテラス壱番館新築時及び中古流通時坪単価推移(単位:万円)※東京カンテイ調べ

恵比寿ガーデンテラス壱番館新築時及び中古流通時坪単価推移(単位:万円)※東京カンテイ調べ

リバーシティと恵比寿ガーデンプレイスの再開発における最大の違いは、恵比寿ガーデンプレイスが巨大な複合型再開発であったことである。既に開店していた「恵比寿三越」はエリアのステイタスを向上させるのに大きな存在であったし、これらの開発に伴って次々と出店していく高級レストランやホテルが、恵比寿駅から10分以上離れた工場跡地を眠らない街に変えたのである。

「代官山アドレス 同潤会代官山アパート再開発プロジェクト」

●代官山アドレス

●代官山アドレス

同潤会代官山アパートは青山アパート(後の表参道ヒルズ)とともに旧同潤会アパートの中でも立地に恵まれた高級系の物件と見られたが、代官山が旧来から持っていたイメージをうまく引き継ぎながら大規模建替・再開発として街に新たな現代的価値を与えた代表的な再開発事例である。その点で、この再開発プロジェクトは同潤会代官山アパートの建替事業として、「歴史の継承」を強く意識しつつ、代官山地区の面開発として「今日的な価値」を与えることにで、代官山エリアの価値をさらに押し上げることに成功した代表的な再開発事例であろう。もともと高いレベルにあった立地の価値をより高くすることに成功したという点では、今日多くの行われている都心エリアの大規模再開発における教科書的存在である。

 

赤池学氏の『代官山再開発物語』には、再開発事業に係わった多くの人の考え方に触れることができるが、特に注目すべき点は、新たな代官山という価値を創るという考え方である。この考えが様々な人や地権者の方々に共有されていた、そう見ることが可能であると思う。

 

代官山というある意味においては再開発以前から既に確立していた“ブランド”を有していたこの地に、新たな価値をオンしていくというのは、簡単なことではないと思う。一歩間違えれば、代官山のイメージの破壊にも繋がるし、以前から住んでいた人が違和感を持つことなく、新しい住民からも「素晴らしい環境」という評価を得ることは、時として大きな矛盾を克服しなければ達成できないことである。

「代官山アドレス」の竣工

地権者や権利関係者は総勢600名にも及んだ※1。同潤会代官山アパートは賃貸住宅として供給されその後払い下げによって区分所有建物貸した経緯があり、払い下げられなかった一部は東京都が所有していた※2。渋谷区、東京電力も地権者となっており、地権者も多さもさることながら様々な異なる利害を持った地権者の多さもこのプロジェクトが長期化した要因である。再開発が事業化したのが1983年である。「代官山アドレス」の竣工が2000年であるからやはり20年近い時間を要した。期間が長引くにつれて相続の発生により地権者が増えるという事態にも遭遇している。

 

渋谷区が増大する電力需要をまかなうために拠点変電所を探していた。そこで面積規模の大きな再開発エリアに白羽の矢が立ったのだ。急遽東京電力の渋谷変電所の設置を受け入れることになった。当然大きな反対運動が起こる。まとまりかけていた合意形成が混乱する。計画で描かれた緑と広場とタワーが混在する開放的な空間と変電施設は相容れない。協議が続けられ、代官山の地下に変電施設を設けることで決着した※3。東京電力の参画は結局、スポンサーを見つけるという大規模再開発にとって重要な問題をクリアするきっかけになった。

 

「代官山アドレス」は1999年から分譲が開始され2000年に竣工している。1999年には176戸が分譲され平均坪単価は440.9万円、2000年は高額住戸30戸が分譲されたため坪単価は533.0万円となっている。全206戸の平均分譲坪単価は469.5万円である。中古事例は2002年以降発生しているが概して高額を維持しており、リーマン・ショック後の2010年までは分譲時の平均坪単価469.5万円を下回ることがなかった。2013年以降は上昇し、分譲時の坪単価を超え、現在では650万円前後となっている。竣工後19年年を経過したが坪単価が600万円台を下回ることは当面なさそうである。紛れもないヴィンタージマンションの価格の動きである。

 

●代官山アドレスの分譲時及び中古流通時の坪単価推移(単位:万円)※東京カンテイ調べ

●代官山アドレスの分譲時及び中古流通時の坪単価推移(単位:万円)※東京カンテイ調べ

代官山は必ずしもお代官様のお屋敷街と言うことではない。その名は諸説起源が語られているが、江戸時代初期の1664年に三田用水が整備されて以降、農地化されたと言われている※4。それ以後は大名の下屋敷が立ち並ぶ「高級住宅地」となっていく。明治維新後に旧大名家や明治の元勲の邸宅が付近に建築され、一気に知名度が上がった。

 

もともと渋谷川と目黒川に挟まれた台地で、地盤が良いため、関東大震災でも大きな被害を免れた※5。そこに「同潤会代官山アパート」が建築された。同潤会代官山アパートがあったからこそ、渋谷や恵比寿に近い立地にありながら、過度な開発や土地の細分化が行われず、ひっそりとした静かな住環境が維持されたという側面もある※6

 

しかし代官山が今日(こんにち)獲得している“おしゃれ”なイメージは1969年から建築がスタートした「ヒルサイド・テラス」であることに疑いはない。建築家・槇文彦が設計した。30年以上継続されたプロジェクトは、単に住宅を建設するという開発に留まらず、「ヒルサイド・プラザ」の建設によって、代官山を文化的な街にしたのである※7

 

このような、街は他にもあると思う。代官山が他の街とは異なるのは、一定の周期で新たな価値観に基づく都市作りが、長い時間の中で連続して行われたことによると考えられる。「同潤会代官山アパートメント」→「ヒルサイト・テラス」→「代官山アドレス」というように、その時の時代背景や新たな考え方を取り入れながら主役を交代させてきた。しかし、代官山のやり方は、従前のものを消滅させ、新たのものを作るのではなく、“2人”の主役をクロスフェードさせながらゆっくりと「世代交代」させたように見えるのだ。これが結果として、絶妙な街づくりにつながったのかも知れない。

「逆風」を推進力に換えて前進したプロジェクト

私は「代官山アドレス」という再開発は、先に挙げた2例とは異なり多くの地権者の合意を得なければ成立し得なかった大事業である。そのため他2例と同列に語るのはおかしいのかもしれない。そのような考え方も可能だと思う。ただ、

 

「アパートの住民は『狭くて古い部屋はもうこりごり。今の部屋を新しくしたい』と願って再開発事業を始めたのです。再開発をして何とか得をしようというのは後から出てきたものだと思う。私は平均的な地権者でしたから、再開発をして格別に得をしようとも思わなかったし、損をしようとも思っていなかった。自分たちの資産価値を以前のように回復し有効に使おうとしていただけです」※8

 

という言葉に表れるように、バブル崩壊とその後のデフレがなかったのならこの再開発は成功したのだろうかと考える。バブル期には一戸の資産価値は3億円から4億円と見積もられていた。それがバブル崩壊で半額以下に下がっていった。このような価値の低下に対する危機感の共有が地権者を一つにまとめる共有意識となった※9 。バブル崩壊がなかったら地権者が同じ方向を向くことができただろうか。私は困難であったように思う。であるなら、代官山の再開発プロジェクトは「逆風」を推進力に換えて前進していく帆船の如きプロジェクトではなかったかと思う。

 

参考文献

 

※1 赤池学著『代官山再開発物語~まちづくりの技と心』58ページ

※2 同61ページ

※3 同143ページ

※4 岩橋謹次著「代官山」36ページ

※5 同39ページ

※6 同42ページ

※7 同48ページ

※8 赤池学著『代官山再開発物語~まちづくりの技と心』184ページ

※9 同150ページ同

僭越ながら敬称は省略いたしました。

 

井出 武(マンション図書館館長)

東京カンテイ上席主任研究員

井出 武(マンション図書館館長)

1989年マンションの業界団体に入社。以後不動産市場の調査・分析、団体活動に従事。
現在、東京カンテイ市場調査部上席主任研究員として、不動産マーケットの調査・研究、講演業務等を行う。
『BSフジLIVEプライムニュース』、『羽鳥慎一モーニングショー』、不動産経済オンライン、文春オンライン、日本経済新聞など多数のwebメディア、新聞、TV等へ出演実績あり。

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