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2022.12.24

大村哲弥 「夢の跡を訪ねて~建築家が設計した分譲マンション<下>~」

大村哲弥 「夢の跡を訪ねて~建築家が設計した分譲マンション<下>~」

本サイト「東京カンテイマンション図書館」を主宰する東京カンテイさんの事務所はJR山手線の目黒駅の駅前にあります。その東京カンテイさんの事務所から徒歩10分余りにところにある目黒区三田二丁目界隈は、ヴィンテージマンションのメッカとして知る人ぞ知るエリア。「夢の跡を訪ねて<下>」では東京カンテイさんのご近所に、建築家が設計を手がけた分譲マンションを訪ねます。

江戸の地形の面影を残す茶屋坂が今も健在。「目黒のさんま」はこの地から

目黒区三田二丁目は、白金台の台地が目黒川に向けて傾斜して下っていく、ちょうどそのあたりに位置しています。この南下がりの斜面は目黒川によって左岸側(川の北側)が浸食されてできた崖地です。界隈には何本もの急傾斜の坂道が走っています。

 

目黒区三田二丁目にある有名な坂が茶屋坂です。現在の茶屋坂は、かつての三田用水の下を随道のように新たに通した坂であり、下の写真の右側上方にみえる緑のガードレールのあたりを三田用水が左右に走っていました。

もともとの茶屋坂が、現在の茶屋坂の東側に今も残っています。両側から建物が覆いかぶさり、カーブしながら都市の底に下りてゆくような、狭く、急な様子は、坂道マニアだったら高評価を下すであろう、いかにも江戸の地形の面影を残した坂道です。途中の曲がり角には、<目黒爺々が茶屋>と記載された案内が建てられています。

歌川広重の浮世絵集『名所江戸百景』に<目黒爺々が茶屋>と題された一枚があります。遠くに富士山を望み、眼下にはのどかな刈田が広がり、右手に茶屋が描かれ、左手の崖下のよしず張の東屋では幾人かの人が談笑しています。陽当たりのよさそうな高台、目の前に大きく眺望が開けた開放感、のんびりした秋の風情など、今の人も思わず行楽心がくすぐられそうな作品です。

■歌川広重「目黒自爺が茶屋」(『歌川広重《名所江戸百景》のすべて』芸大コレクション展図録から)

■歌川広重「目黒自爺が茶屋」(『歌川広重《名所江戸百景》のすべて』芸大コレクション展図録から)

この爺々が茶屋には有名な逸話が残されています。この辺から鷹番あたりにかけては、かつての将軍の鷹場だったところ。三代将軍家光が鷹狩に赴いた際にこの茶屋で歓待を受けて、それ以降は必ず立ち寄ったとか、あるいは、落語「目黒のさんま」において殿様が始めてさんまを食べたのが、この爺々が茶屋だったとか。ちなみに目黒区のさんま祭りは、茶屋坂を下りた目黒川沿いの田道広場公園で開かれます。

 

目黒区三田二丁目にヴィンテージマンションが集積した背景とは

ここ目黒区三田二丁目には、1960年代後半から70年代にかけて建てられた、いわゆるヴィンテージマンションが数多く建ち並んでいます。なぜでしょうか。

 

その答えはこの地が目黒川に下ってゆく急傾斜の崖地だったことにあります。

 

昔の地形図をみると、この目黒区三田二丁目界隈は、都心に近く、環境や眺望に恵まれた割には、崖や急斜面だったことが理由となって、それまでは建物などがあまり建たないまま残されていました。1960年代後半以降、マンションの立地が都心エリアから山手線の外側へと広がっていくなかで、マンション建設適地として注目され、一挙に開発が進んだのでした。

 

江戸時代には千代が崎と呼ばれ、富士山を望む風光明媚な行楽地として親しまれたこの目黒区三田二丁目の地は、ヴィンテージマンションが建ち並ぶ高台の住宅地に変貌し現在に至っています。

 

そんななかの建築家が設計した分譲マンションを訪ねましょう。

潔いモダニズムが超クール。圓堂政嘉の《目黒ハウス》

《目黒ハウス》(1969年)は、<ディメンションの問題>で紹介した建築家 圓堂政嘉が率いる圓堂建築設計事務所が設計しました。南側に眺望が開けた三田二丁目の高台に建っています。

 

圓堂政嘉は、《音羽ハウス》(1970年)や《広尾ガーデンヒルズ イーストヒル》(1983年)など、数々の分譲マンションの名作を手がけた建築家です。住宅以外では、山口銀行本店(日本建築学会賞)、京王百貨店新宿店などを設計しました。

シンメトリーなフォルム、バルコニーがなく柱と梁のみで構成された立面、袖壁などがない全面ガラス開口の透明感など、マンション離れした印象の建物です。

 

構造と幾何学だけ。余計なものを排したまさにform follows functionを体現したようなデザインです。あえて明示的デザインを施さないエントランスは、この建物が一種のオープンエンドな存在として、つまりいくらでも増殖させることが可能なプロトタイプ的存在として、そこに在ることを訴えています。

 

そのそっけないまでの潔さは、時代を超越したクールさを宿しており、差別化、高級感、パース映えなど、さまざまな想いが込められて情緒たっぷりにデザインされた今どきのマンションを見慣れた眼には、逆に新鮮に映るでしょう。

 

すっきしたファサードを作るために、室外機は妻側に設備ラックを設け、そこに置くというアイディアが採用されています。建築当初の白い外壁はダークグレイに塗りなおされており、エントランスもシームレスなガラスのデザインに改修されているようです。

 

《目黒ハウス》は圓堂政嘉が設計を手がけ最初の集合住宅です。常々力説していた、開放廊下に面するようなプライバシーのない居室がある日本のマンションは欠陥商品である、という持論を2戸1EV、3戸1EV方式により実現した建築であり、その後の《広尾ガーデンヒルズイーストヒル》などの原点となった作品です。圓堂政嘉はここを自邸としており、自信作だったことがうかがえます。

 

名匠による究極の邸宅マンション。吉村順三の《ヴィラージュ目黒》

三田二丁目の斜面の中腹、ちょうど旧茶屋坂を下ったあたりに建つのが、名匠・吉村順三が設計した《ヴィラージュ目黒》(1979年)です。

 

吉村順三は、アントニン・レーモンドに師事し、皇居新宮殿(基本設計)、奈良国立博物館新館(日本芸術院賞受賞)、国際文化会館(前川國男、板倉準三と共同設計)などの著名建築を手がけた昭和の日本を代表する建築家の一人です。モダニズム建築のなかで日本の木造建築のよさを生かした誠実で質実な作風で知られています。

スパニッシュ調の戸建の邸宅かと見まがうこの建物は、すべてメゾネットの大型住戸5戸からなる分譲マンションです。

 

「良いデザインの基本は、プロポーションしかないと思います」、「建築の完成度は、詳細に検討された各部の寸法、比例によって決まる」、「私は、建築家として、自分では寸法にいちばん責任をもっている」。いずれも吉村順三の言葉です。

 

一見、当たり前と見過ごしてしまいそうな外観ですが、よく見ると、雁行やずれをともなって微妙に変化しながら一戸一戸の個性を際立たせるフォルム、柱やバルコニーの存在感が醸し出すさりげない威風、オレンジ、白、緑が織りなすモダンでリラックスした暮らしのイメージなど、控え目ながら絶妙なデザインであることに気がつきます。

 

屋根から飛び出した煙突はなんでしょう?暖炉の煙突なのです。なんと、このマンションには各住戸に暖炉がついているんですね。それは、炉辺で家族が集まってよもやま話に興じるなど、温かい暮らしのひと時を想像させて止みません。

 

思わず住んでみたくなるような、いい感じの住まい。そんな佇まいのマンションです。

 

生涯で個人住宅を200棟以上手掛けた吉村順三が設計した分譲マンションで、現在、残されているのはこの《ヴィラージュ目黒》だけです(1)

 

「建築家として、もっとも、うれしいときは、建築ができ、そこに人が入って、そこでいい生活がおこなわれているのを見ることである。日暮れどき、一軒の家の前を通ったとき、家の中に明るい灯がついて、一家の楽しそうな生活が感じられるとしたら、それが建築家にとっては、もっともうれしいときなのではあるまいか。家をつくることによって、そこに新しい人生、新しい充実した生活がいとなまれるということ、商店ならば新しい繁栄が期待される、そういったものを、建築の上に芸術的に反映させるのが、私は設計の仕事だと思う。つまり計算では出てこないような人間の生活とか、そこに住む人の心理というものを、寸法によって表わすのが、設計というものであって、設計が、単なる製図ではないということは、このことである」

 

この明治生まれの名匠が語った言葉は、何回読んでも設計に対する誠実さ、真摯さ、矜持に打たれます。《ヴィラージュ目黒》にも、そんな吉村順三の姿勢が感じられます。

 

ここ目黒区三田二丁目には、ほかにも、「夢の跡を訪ねて<上>」で訪れた、VILLAシリーズを手掛けた坂倉建築研究所による《小田急目黒三田マンション》(1977年)や当時、低層集合住宅を次々と生み出していたTRIAD建築設計事務所による《ガーデン目黒》(1978年)など、建築家が設計した分譲マンションがあります。

★目黒ハウス

住所 : 東京都目黒区三田2-10-22

総戸数 : 29戸

構造・規模 : 鉄骨鉄筋コンクリート地上7階建

設計者 : 圓堂建築設計事務所

事業主 : 住友不動産

竣工 : 1969年

 

★ヴィラージュ目黒

住所 : 東京都目黒区三田2-13-2

総戸数 : 5戸

構造・規模 : 鉄筋コンクリート地上3階建

設計者 : 吉村順三

事業主 : ゼンス不動産

竣工 : 1979年

 

(1)分譲リゾートマンション《フジタ第2箱根山マンション》は吉村順三が設計した。

 

大村哲弥

一級建築士/ブロガー

大村哲弥

有限会社プロジェ代表:1984年、セゾングループのディベロッパー株式会社西洋環境開発に入社。住宅・マンション事業のマーケティング・商品企画・事業企画に従事する。バブル前夜からバブル崩壊とその後のカルチャーシーンのなかで20歳代、30歳代を過ごし、不動産ビジネスに携わる。1996年、有限会社プロジェ設立。建築・住宅分野のコンサルティング・商品企画・デザイン・執筆などを手がける。東京工業大学大学院修了。一級建築士。

ブロガー:本・映画・音楽・アート・デザイン・ファッション・都市・建築・食・料理・旅・暮らし・まち歩きなどのカルチャーフィールドを横断的に渉猟・論考するブログを主宰。

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