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更新日:2023.08.04
登録日:2023.08.04
平井駅――“平井の未来はタワーマンションが変える”…東京の近代化と共に歩んだ下町(東京都江戸川区/JR中央・総武線各駅停車)
江戸川区「平井」といえば“小松菜発祥の地”であり、江戸川区で唯一“荒川より手前にある街”でもある。地図を見ると、なぜ江東区・墨田区ではなく江戸川区に属しているのかが不思議なほどだ。しかし、その陰には“江戸”から“東京”への移り変わりと共に、街の近代化・発展を目指して努力した地域の奮闘があった。平井を歩きながら、東京の近代化を振り返ってみよう。
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1.平井の歩み
“元佐倉道”と“逆井の渡し”
現在の国道14号線は“京葉道路”のほか“千葉街道”と通称されるが、江戸時代には“元佐倉道”(もとさくらみち)といった。江戸時代の佐倉は、下総国(千葉県北部)を所領とした佐倉藩が本拠を構え、佐倉藩から老中を何人も輩出するなど、江戸の東の要であった。佐倉藩の蘭方医学塾“順天堂”(現在の順天堂大学)は、長崎と並ぶ西洋医学の研究拠点として大いに発展したほど。江戸と佐倉を結ぶ“元佐倉道”が日本橋を出て、隅田川を両国橋で渡り、最初の渡し船となるのが“逆井(さかさい)の渡し”であった。
▲“逆井の渡し”跡の碑文。地元の人々に大切にされていることがわかる
逆井という地名は平井1・2丁目に取り込まれて現存しないが、現在でも目黄不動最勝寺の至近に“逆井公園”や“逆井保育園”の名が残っている。その中で最も大きな遺構が都営新宿線「東大島」駅近くの“逆井(さかさい)の渡し跡”だろう。江戸防衛の意味合いもあって架橋が許されず、当時の逆井村(江戸川区)と対岸の亀戸村(江東区)が共同で渡船を管理していたという。明治以降、“佐倉道”は東京と軍都・千葉を結ぶ幹線道路として“千葉街道”に改められ、1879年には逆井橋が完成したことで役目を終えている。ただし、この時は渡し船に代わるものとして村が建設したため通行料を取る賃取橋(ちんとりばし)で、東京府(当時)管理の一般の橋となったのは1897年のこと。この時代は渡し船に代わる賃取橋が多く、同じ中川では金町と亀有を結ぶ新宿橋も賃取橋であった。
▲平井二丁目に残る“逆井公園”。隣接する成就寺に併設される保育園も“逆井保育園”。
この頃の平井村(1889年上平井村・中平井村・下平井村が合併)は小松川の北に隣接する農村に過ぎず、地域の中心であったのは小松川(逆井)であった。1878年(明治11年)、東京府に南葛飾郡が置かれた際、南葛飾郡役所が小松川村大字逆井に置かれた。当時の南葛飾郡は現在の江東区(旧深川区除く)・墨田区(旧本所区除く)・葛飾区・江戸川区の4区に跨っていたが、その郡役所として選ばれたのが小松川村の逆井であった。概ね南葛飾郡1町23村の中央部にあたるという地理もあったが、千葉街道などを経て郡内各所からの便が良く、交通の結節点でもあった。
▲村由来の名を残す“中平井コミュニティ会館”(平井7丁目)。下平井が駅周辺、中平井が駅北側にあたる
総武鉄道「平井」駅と城東電車の開業
1894年、総武鉄道が「本所」(ほんじょ、現『錦糸町』)~「佐倉」間で開業した。7月段階では江戸川の架橋が間に合っていなかったため「市川」止まりであったが、同年12月まで東京側の仮ターミナルであった本所まで延伸している。ただ、当時は「本所」~「市川」間に途中駅はなく、5年後の1899年になって「平井」「小岩」の両駅が開業した。都心側の隣駅「亀戸」は更に5年後の1904年で、この時に都心側ターミナルとされた「両国橋」(現『両国』)まで延伸し、前年に「両国」まで来ていた東京市街鉄道(1907年より東京市電、のちの都電)と乗り換えができるようになった。
▲平井駅。開業から5年間、都内には途中駅が無かった。
1907年には国有化され“国鉄総武本線”となったが隅田川を渡らなかったため、都心で他の国鉄線と繋がらない珍しい路線であった。(尤も、複数の私鉄を統合して国鉄が成立した関係上、当時の中央線は「飯田町」(現在の『飯田橋』駅東口)、東海道線は「新橋」、東北線・常磐線は「上野」とターミナルがバラバラであった。しかし、総武本線以外は山手線を介して結ばれていた)
▲「平井」駅北口。
総武線の線路を見ると、江戸川区を避けるかのように北側に迂回しているのがわかる。総武鉄道の開通から5年にわたり「本所」から「市川」まで途中駅が全くなかったように、当時の江戸川区一帯は低湿地に田んぼが広がるばかりで、重要度としては帝国陸軍の拠点が置かれた国府台(こうのだい)を抱える「市川」の方がよほど高かった。このため、東京都心に少しでも近い場所にターミナルを置き、「市川」まで直線的に結ぶルートを採ろうとすると、隅田川の水運の便があった両国橋にターミナルを置き、「平井」と「小岩」でやや急なカーブを設ける以外はほぼ一直線になる現在のルートしかなかった。「平井」駅と南葛飾郡役所を結ぶ通りは駅前商店街として発展したが、これが現在の「平井駅通り商店街」である。
▲平井駅通り。駅周辺は通常の道路だが、120mほど先から歩行者専用になる
総武本線が長らく「両国橋」止まりであったため、下町の足として親しまれたのが“城東電車”であった。1917年、城東電気軌道が「錦糸町」―「小松川」間で開業。「小松川」電停は「平井」駅から南に1.2kmほど離れた千葉街道沿いで古くから人の往来があった上、目黄不動や南葛飾郡役所も電停に近かったので、国鉄駅よりもよほど賑わっていたのではないだろうか。1925~26年には「小松川」から「西荒川」まで延伸、また荒川放水路を渡った先の今井街道沿いに「東荒川」―「今井橋」が飛び地区間として開業し、浦安・行徳方面への連絡をも目論まれた。1943年には別会社であった城東電車も都電へと編入され、両国橋を渡って日本橋方面への直通運転を始めている。
▲「今昔マップ on the web」より1917年の地形図(東京首部)。荒川放水路の開削が進むが通水はまだされていないが、千葉街道沿いに城東電車の「こまつがは」電停ができるなど、徐々に都市化が進んでいる。駅周辺は特産の“小松菜”畑をはじめ、大部分が農地であった。なお、荒川放水路に近すぎたため、1924年までに「平井」駅は郡役所への通りと交差する「亀戸」寄りへ移動している。この通りが現在の“平井駅通り”である。
荒川放水路の開削と平井村の分断
平井の地図を見ると、旧中川が町を大きく蛇行しているのがわかる。“逆井”という名からわかるように、かつての平井は豊かな田畑が広がる半面、水害が多い町でもあった。埼玉県北部から流れてくる中川は下流でいくつもの支流を合わせる結構な幅の川であったから、それが下流で大きく蛇行するとなれば、水害に悩まされたであろうことは容易に想像がつく。また、当時の隅田川には荒川本流が流れ込んでいたから、日本橋や浅草といった都心部でも水害のリスクが大きかった。これらを解決するために掘られたのが、現在の荒川本流である“荒川放水路”(1913年開削開始、1924年通水)である。(荒川放水路は1965年から荒川本流となったが、本稿では便宜上この名を用いる)
▲荒川放水路を渡る国道14号(京葉道路)小松川橋。この大きな川は元々存在しなかった。
川幅750mもの巨大な川を掘りこむにあたっては、当然移転を強いられた人々は多かった。東武伊勢崎線は「鐘ヶ淵」―「堀切」間が丸ごと河川敷に取り込まれたため、1駅間を堤防沿いに移設する大工事を伴っている。この開削によって東武線「堀切」と京成線「堀切菖蒲園」が地続きでなくなり、“川を挟んで同じ町名を冠する駅”になったのは有名だが、“平井村”もこの時に中平井・下平井と上平井(葛飾区側)が切り離された。荒川放水路によって分断されることとなった“平井村”“小松川村”“船堀村”は、荒川放水路以西が新設の“小松川町”、以東は“松江村”および“奥戸村”へ編入され、消滅している。
▲同じく荒川放水路を渡る首都高速7号小松川線荒川大橋。対岸は中央環状線との小松川ジャンクション。
江戸川区側に残った平井は、「平井」駅が動かなかったこともあり現代に至るまで存続しているが、葛飾区となった“上平井”の名は学校名や公園名などに残ってはいるものの、“対岸の地名”になってしまった不便もあり、地名は最寄駅となった「新小岩」に因み“西新小岩”・“東新小岩”に改称されている。一見、平井は荒川で江戸川区本土から切り離され、なぜ江東区や墨田区ではなく江戸川区に属するのかが不可解だが、“元々荒川が存在せず、平井村が両岸に跨っていた名残”なのだ。
▲旧中川堤防。対岸は墨田区東墨田で、この小さな川が区境。一見、平井が江戸川区なのが不思議に映る。
荒川放水路の開削によって、中川の流路も分断された。荒川放水路以東の中川は河口近くまで荒川放水路と並行することとなり、平井を流れる荒川放水路以西は「旧中川」の名がついた。旧中川といっても中川の水ではなく、荒川放水路上流側の木下川(きねがわ)排水機場から取り入れられ、下流側の小名木川(おなぎがわ)排水機場で荒川に排出される、荒川の別経路のような形になった。ただし東京スカイツリーの脇を流れる北十間川(きたじっけんがわ)、浦安や船橋の漁場と日本橋魚河岸を結んだ小名木川などが旧中川に接続しており、江東ゼロメートル地帯の治水の都合上、埋め立てられることはなかった。上流・下流とも排水機場(水門)で締め切られており、普段は通水量も少ない。中川本流でなくなった旧中川は相応に川幅が狭められ、広くなった河川敷は子どもの水遊びもできる親水公園のような憩いの場となっている。しかし、増水時は北十間川や小名木川からの水を荒川へと逃がし、江東ゼロメートル地帯を水害から守るという大きな役目を担っているのだ。
関東大震災の復興で中央・総武線の直通運転開始
1925年の関東大震災によって、木造家屋や町工場が密集していた東京下町は未曽有の被害を被った。総武線沿線では都市化が進んでいた墨田・江東区内がほぼ灰燼に帰す大災害となったが、都市化がまだそれほど進んでいなかった平井においては、被害がそれほど大きくなかった。このため、墨田区・江東区周辺から工場や住宅の流入が次第に増えていった。
▲道幅の狭い路地に面した古くからの商店。平井にはこうした下町的な景色も多く見られる。
震災復興と共に「両国橋」止まりだった総武本線の改良が議論された。総武本線から都心へ向かう乗客で「両国橋」からの市電は混雑が激化しており、関東大震災をきっかけに郊外に住居を求める向きが多くなったことが拍車をかけた。そこで、孤立していた総武本線が隅田川を渡り、山手線・京浜東北線に接続する「秋葉原」を経て「御茶ノ水」に結び、併せて中央線を「中野」まで複々線化するというプランが練られ、1932年に実現した。隅田川を渡る意気込みを象徴するかのように「両国橋」は「両国」へと前年に改称し、“橋”を外している。この時は中央線の各駅停車(電車)が「両国」まで乗り入れてくるのみであったが、翌1933年には「両国」~「船橋」間の電化が完成し、「平井」にも都心直通の電車が乗り入れてくるようになった。「平井」が東京のベッドタウンとして本格的な発展を始めるきっかけとなったのは、やはり総武線の中央線直通運転が始まる頃と言ってよい。
▲平井を出発する総武線各駅停車千葉行き。総武線の都心直通は平井に大きな影響を及ぼした。
ただし、この頃は都心直通の各駅停車(電車)と「両国」止まりの長距離列車(蒸気機関車)が同じ線路を共有していたので、蒸気機関車もまだまだ現役であった。電車が走り始めたといっても、1904年から電車が走っていた中央線に比べると約30年の差が開いており、山の手に比べればまだまだ長閑な景色が広がっていた。とはいえ、総武線の都心直通前後には「平井」駅周辺から小松菜畑などの農地は姿を消している。江戸野菜を代表する野菜のひとつ“小松菜”は、“小松川”で栽培されていたのが由来・・・ということを知る方は、そう多くないだろう。現在、平井から小松菜畑はほぼ消滅してしまったが、江戸川区内の荒川放水路対岸では現在も小松菜の栽培が続けられている。
▲平井を通過する横須賀・総武快速線。1972年に複々線化が行われ、「平井」は快速通過となった。
総武線と城東電車が発展するにつれ、中川の水運や工業用水の便があり、未利用の平地が広がっていた平井は次第に工業地として発展していった。関東大震災をきっかけに都心から移転してくる工場も多く、ライオン石鹸平井工場(現在も旧中川沿いで操業を続ける“ライオン平井事業所”)ができたのもこの頃(1936年)である。平井駅と南葛飾郡役所を結ぶ通り(現在の平井駅前通り商店街)も往来が増え、震災2年後の1927年(昭和25年)には平井三業地(待合茶屋・料理屋・芸妓屋)が組織された。総武線と城東電車が通じて都心からのアクセスが良く、工場労働者も多かったので、平井駅前は花街としても賑わい、最盛期は250名もの芸妓が居たというから驚く。
▲現在も平井で操業中のライオン平井事業所。旧中川沿いはこうした工場の立地が多い。
1932年、小松川町を含む南葛飾郡内の3町4村が合併し“江戸川区”が成立。当時の人口は約10万人に過ぎず、鉄道駅も北西端の「平井」と北端の「小岩」と大きく北に偏っていたため、区内の大部分は田畑が広がるばかりであった。区役所は1923年の郡役所制度自体の廃止で空いていた旧南葛飾郡役所に置かれた。平井が江戸川区の行政の中心となった時代もあったのだ。
▲平井駅通りに面する小松川区民館。かつてここに南葛飾郡役所→江戸川区役所が立地した。
都営新宿線「東大島」駅開業と住宅地への転換
戦後の復興に伴い、江戸川区役所は1948年に現在地(中央1丁目)へ移転した。当時は江戸川区を縦に貫く幹線道路として総武線「新小岩」から江戸川区を縦に貫く“船堀街道”と“平和橋通り”、また千葉街道から分かれる新道として“京葉道路”が建設されている最中であり、区役所はこの道路の要衝となる位置に構えることとなった。旧中川と荒川放水路に囲まれた島状の平井は、江戸川区で唯一荒川放水路西側に位置するため行政の非効率を抱えていたのに加え、旧3町4村の中で最も人口が多かったのが松江町であったため、松江から約1km、「新小岩」から約1.5kmとなる新区役所は(当時としては)理にかなった立地であった。
▲都営新宿線「東大島」駅ホーム。荒川放水路を跨ぐ鉄橋が至近のため、新宿線では珍しい地上の高架駅。
また、都市化の進展と共に都電は交通渋滞に巻き込まれるようになって定時性を失い、地下鉄への代替が進んでいった。1968年には「水神森」(「亀戸」駅東口)~「西荒川」が廃止されて平井から都電は姿を消し、代わって都営バスが走り始めた。1978年には都営新宿線「岩本町」―「東大島」間が開通し、小松川に再び電車が走り始めた。「東大島」は旧中川を跨ぎ、江東区側の“大島口”と江戸川区側の“小松川口”に分かれるという珍しい構造であるが、「西大島」「大島」「東大島」と“大島”がつく駅が3つも連なっているので、ここは“小松川駅”とか“大島小松川駅”でも良かったのではないかと思う。
▲「東大島」駅は旧中川を跨いで建っている。
都営新宿線の開通と共に小松川では第二種土地区画整理事業が行われ、かつての大規模工場跡が広大な「大島小松川公園」と大規模住宅団地に生まれ変わった。また、「平井」駅のメインストリートである平井駅前通り商店街は、長年にわたり狭い商店街に大型のバスや自動車が入り混じる危険な状態が続いていた上、墨田区側に抜ける道路が無く北部が袋小路のようになっており、災害時の逃げ場がないという問題を抱えていた。これを解消すべく“ゆりのき橋通り”が2007年に全線開通し、平井駅前通り商店街は歩行者専用となって格段に安全性が向上している。
▲平井駅通り商店街中ほどの小松川信用金庫。信用金庫が単体で成立する街ということがわかる。
「平井」駅南口はゆりのき橋通りの開通、平井駅前通り商店街の再整備によって見違えるほどになったが、今度は北口でも再開発の波が及んできている。その中核となるのが“プラウドタワー平井”の誕生である。「小岩」、「亀戸」に続く“プラウドタワー”に沸く「平井」の街の今を見てみよう。
▲ゆりのき橋通り(奥がゆりのき橋)。対岸は墨田区東墨田・八広地区で、京成押上線「八広」駅もこの先。
2.平井を歩く
賑やかな平井駅通り商店街
さて、まずは「平井」駅南口に降り立ってみよう。「平井」駅には北口もあるが、平井のメインストリート“平井駅通り商店街(平井親和会商店街)”をはじめ、古くから平井の中心となってきたのは南口である。その割に南口ロータリーは交番、タクシー乗り場とバス停が一つあるくらいで小ぢんまりしているが、これはバスターミナルが北口に移設されたことによるものだ。駅周辺の道は全般的に幅が狭く、歩道らしい歩道が無かったり曖昧だったり、真っすぐでない道が多いのは江戸川区には珍しい。江戸川区で最も古い“駅前”ゆえだろう。
▲「平井」駅南口。元々のメインはこちら側だが、交番と小さいロータリーがあるのみで、小ぢんまりしている
平井駅通りは駅から120mほど通常の車道と歩道が続くが、その先からは自転車・歩行者専用道路になる。かつては駅と京葉道路を結ぶ道路がこの商店街しかなく、駅へ向かうバスは商店街を歩く人々をかき分けながら走っていたというが、今となってはそれが信じられない程度の道幅しかない。それでもクルマが入ってこず、小松川から一本道で繋がっているということもあって、行き交う人々は多い。
▲平井駅通り沿いに立地する焼き鳥店。地域住民の生活を支える店舗が多い。
平井駅通りは惣菜屋さんやスーパー、ブティックなどが軒を連ねるが、そこから一本横道に行くと居酒屋やスナックが増えてくる。細い道に小さな飲食店が続くあたりに平井三業地の面影を感じるが、今となっては少し夜のお店が多いかな…程度にしか感じられない。ただ、近隣の「亀戸」や「錦糸町」よりは飲食店の密度、数ともに少なく、すっきりしている。この辺りは好みが分かれるところだろう。
▲平井駅通り商店街。人通りも多く、活気がある。
平井駅通り商店街はゆりのき橋通りと鋭角に交差するところで途切れるが、道幅が狭いながらも真っすぐの道はなおも続き、京葉道路を越えて荒川にぶつかるまで続いている。その途中にあるのが江戸川区小松川区民館(区役所出張所)で、かつての南葛飾郡役所・初代江戸川区役所が建っていたところだ。太平洋戦争中は役所ゆえに空襲を受けており、コンクリート造だったために焼け残った文書庫が、区には珍しい戦災遺構として近隣の“小松川さくらホール”隣で保存されている(場所は移動している)。街の姿が変わる中でも、100年以上にわたり地域の中心としての役目を担い続けてきたということに、歴史の重みを感じずにはいられない。
▲旧・江戸川区役所文書庫。空襲の際は重要な文書を近くの水路に沈めて守ったという。
平井駅通り商店街 周辺のマンション
平井の名刹“目黄不動最勝寺”
“目黒不動瀧泉寺”の玄関口「目黒」に本社を構える東京カンテイの社員である私にとって、“目黄不動最勝寺”とは心がざわつく名前である。これは中国の五行思想に倣い、江戸幕府が江戸の周囲の不動尊を“五色不動”に選び、天下泰平を祈願したと伝えられているものだ。「目黒」「目白」は有名だが、目赤、目青、そして目黄も現存しており、その目黄不動が平井の最勝寺というわけだ。いずれも江戸城(皇居)から5~8kmほど離れており、江戸の外側の境界線あたりとして認識されていたことがわかる。
▲目黄不動最勝寺。“目黄不動尊”は右手の不動堂内に安置される。
目黒不動もそうだが、古い寺院があるだけに平井には寺院がとても多い。目黄不動最勝寺の隣には成就寺という寺院があり、境内に“逆井保育園”を併設している。その手前は“逆井公園”で、平井に統合される前の逆井の地名が残っている、貴重な存在でもある。他にも、駅北口側の“平井聖天燈明寺”は、なんと明治時代の鹿鳴館のシャンデリアを堂内で保存展示していることで知られる…など、寺町のイメージが無いのがもったいなく感じる。旧中川から繋がる北十間川を3~4km辿った先は浅草であり、当時は舟運が今のトラックの役割を果たしていたから、浅草と平井の交流も必然的に多かったのだろう。
▲目黄不動最勝寺の2軒南にある善通寺。浄土真宗本願寺派。どことなく築地本願寺に似ている。
目黄不動最勝寺の先で、国道14号京葉道路に突き当たる。京葉道路は小松川橋で荒川を渡り、江戸川区役所などの江戸川区本土方面に続く。駅から京葉道路までは新旧混然とした古くからの街並みであるが、京葉道路以南は住所も平井から小松川に変わり、土地区画整理事業エリアに含まれるため、一転して大きなマンションが目立つ近代的な街並みになる。
▲平井(手前側)は低層住宅が多いが、京葉道路を挟んだ先の小松川(奥側)は高層の集合住宅が目立つ。
目黄不動最勝寺 周辺のマンション
幻の都電“荒川大橋"は首都高に
平井駅通り商店街から続く真っすぐの道は京葉道路を越えたあたりで尽きるが、このあたりに都電小松川電停があった。「平井」駅から1.2km、旧郡役所から600mほどで、郡役所は電停と駅の中間あたりに構えていたということになり、電停と役所、役所と駅の間の往来がもとになって平井駅通り商店街が成立したというのがよくわかる。とはいえ、このあたりの都電軌道は専用軌道(道路併用ではない普通の線路)であり、軌道跡を利用した道路の形に名残が見られる程度で、当時を偲ぶものは何もない。
▲かつて城東電車→都電が走った軌道跡の道路。この奥に小松川電停があった。
さらに150mほど東が西荒川終点だが、荒川堤防に突き当たるように唐突に途切れる簡素な終点であったという。現在は、対岸の東荒川電停跡に至るまで首都高速7号小松川線の敷地(荒川大橋)に完全に飲み込まれており、ここから錦糸町や大手町への都電が出ていたとは、今となっては想像しがたい。ここから京葉道路の小松川橋は200mほど先で、都電を迂回させるには遠回りだったため、都電専用の架橋が望まれたのだろうが、その“遠回り”ゆえに繋がらなかった。
▲西荒川終点跡。現在は首都高速7号小松川線荒川大橋となり、都電の痕跡は全くない。
もし西荒川と東荒川の間が繋がっていれば、「亀戸」から鉄道駅に恵まれなかった小松川や松江を通り、都営新宿線「一之江」までが結ばれていたはずだった。荒川を渡れず不便な状態が続いた都電一之江線は1925~1952年の営業と、僅か27年で廃止されている。現在は「錦糸町」―「船堀」―「葛西」を結ぶ都営バス錦25系統などで代替され、江戸川区の東西を結んでいる。都電が渡るはずだった橋は首都高の橋になり、成田空港や房総半島などと都心を結ぶ高速道路ネットワークに組み込まれた。都電よりもはるかに広い範囲の役に立っているのは、せめてもの慰みと言えるだろうか。
▲都電が渡れなかった荒川を、現在は首都高速が渡っていく。
小松川橋 周辺のマンション
憩いの場になった旧中川の水辺
旧中川を跨ぐ都営新宿線「東大島」から、今度は「平井」を目指してみよう。かつての工業地は大島小松川公園に姿を変え、江東区側(大島地区)・江戸川区側(小松川地区)を合わせて一つの公園になっている。旧中川を跨いで大きな橋が2つも架けられ、一周600mの陸上トラック状のランニングコースになっているのが面白い。大島小松川公園を過ぎ、首都高をくぐるあたりに架かるのが“逆井橋”で、“逆井の渡し跡”として碑文が立てられている。
▲大島小松川公園。橋が2つ架けられ、陸上トラック状のコースが造られている。
旧中川の流れを見ると、荒川と水門で仕切られているとはいえ、底が見えるほど水量が少ないのがわかる。これは“江東デルタ地域”東端という立地ゆえ周囲の地盤沈下が著しいため、川の水を極力減らして水平面を地平面より低くし、洪水に備えているという“江東ゼロメートル地帯”ならではの事情がある。半面、東京都心の近くでありながら広大かつ水流が安定しているという特性を活かし、平時はカヌーやボートの練習場になっているようだ。河原には実に多くのカヌーやボートが保管されている。
▲旧中川に憩うカモ。外敵も少なく、カモたちの楽園になっているのかもしれない。
逆井橋から1.2kmほど遡ると、総武線の鉄橋に差し掛かる。総武線の北側を並行する蔵前橋通りが“江東新橋”で旧中川を渡るのもこの辺りで、工場や物流倉庫などがまだまだ多いが、徐々に数は減ってきている。蔵前橋通りに面し、江東区側からも買い物客が多く訪れる大型家具店“島忠ホームズ平井店”(スーパーマーケット“ロピア平井島忠ホームズ店”を併設)も、1990年代までは工場だった。
▲旧中川を渡る蔵前橋通り・江東新橋。左手が島忠ホームズ平井店。
その島忠ホームズの隣に真新しい大規模マンションが建っている。2023年7月現在、平井でもっとも新しい大規模マンション“シティハウス平井”である。ここも工場や倉庫が広がっていたところで、跡地がこうしてマンションに建て替わっているというわけだ。A~C棟に分かれているが、A棟は旧中川に面しており、河川敷は親水公園のようになっている。水量が少ないので、よくある都市河川のように護岸で固められているということもなく、水辺まで近づけるようになっており、取材時も子供たちが川遊びを楽しんでいた。早咲きで知られる河津桜が植えられ、春には目でも楽しませてくれることだろう。
▲旧中川は水量も少なく穏やか。河川敷はランニングや散歩の人も多い。
シティハウス平井の前に、“旧中川かさ上げ護岸”というモニュメントが建っている。これはかつての地盤沈下に対処すべく、最初に建てられた背の低い護岸の上に、年代も素材もバラバラな護岸をどんどんかさ上げしていったため、ミルフィーユ状に護岸が積み重なったというもの。今では憩いの場になった旧中川沿いの河川敷だが、その裏には先人の水害や地盤沈下との闘いを経て、今の穏やかな水辺がある。上流の木下川排水機場近くには、スーパー堤防(堤防だけかさ上げするのではなく、その周辺の市街地ごと堤防上に持ち上げ、堤防の決壊を防ぐもの)上に建てられたマンションもある。その苦労の先に今日の街並みがあるということを、かさ上げ堤防は私たちへ静かに伝えてくれる。
▲旧中川かさ上げ堤防。この地の人々が水害と戦ってきた証拠だ。
旧中川 周辺のマンション
3.平井のこれから
“HIRAIのMIRAI” プラウドタワー平井
平井駅通り商店街が伸びる南口に対し、北口は今一つ影が薄かったが、そのイメージを覆そうとしているのが“プラウドタワー平井”(2024年11月竣工予定、29階建374戸)だ。
▲「平井」駅北口目の前で建築中の“プラウドタワー平井”。
“プラウドタワー平井”は“平井五丁目駅前地区市街地再開発事業”の主軸となる。予定地内は小規模な雑居ビルやアパートが軒を連ねていたが、「商業環境の更新が進まず、活性化が必要となっている」「昭和40年代に整備された老朽化した建物が建ち並び防災上の課題がある。商業環境と住環境の調和を図り、まち全体の魅力を高めるとともに、定住人口の確保が必要」(東京都都市整備局)と指摘されているように、課題を抱えていたのも事実であった。そこで、タワーマンションの建設により新たな居住者を呼び込むと同時に、低層階を商業施設として従前の商業機能を確保するという策が採られることになったのだ。老朽建物の更新による災害対策という性質も持つため、全体の3割程度が地権者住戸として設定され、これらの多くはワンルーム住戸となる。
▲「平井」駅改札口近くから見渡す。ロータリーを挟んだ向かい側という稀有な立地だ。
29階建374戸という規模は「平井」徒歩圏で最も大きい。戸数では“AQURAS”(2010年築、14階建567戸)に及ばないものの、“AQURAS”は「平井」駅北口徒歩15分と駅からやや離れており、駅前にできる“プラウドタワー平井”とはカテゴリが異なる。他にも、平井には先述の“シティハウス平井”(2023年築、A~C棟合わせて12階建319戸)、“シティテラス平井”(南口側・2016年築、14階建357戸)、ビューネタワー平井(南口駅前・2000年築、21階建199戸)など大規模マンションがあるが、“プラウドタワー平井”はこれらよりも階数・戸数とも多い。29階建というスケールが成せるものだろう。
▲南西側から見た“プラウドタワー平井”。ロータリーに出入りするクルマはさほど多くない。
2023年7月現在も販売中だが、周辺の新築マンションが平均坪単価280~300万円前後での売り出しが多いなか、“プラウドタワー平井”は平均坪単価400~420万円前後での販売が多くなっている。「平井」周辺のJR中央・総武線各駅停車沿線は“プラウドタワー”シリーズの分譲が多く、1つ手前の「亀戸」では“プラウドタワー亀戸クロス”(2021年築、25階建934戸・平均坪単価374万円)、同じ江戸川区内の2つ隣「小岩」では“プラウドタワー小岩ファースト”(2022年築、22階建233戸・平均坪単価347万円)と立て続けに竣工しているが、いずれも初月売行97~100%と販売はすこぶる順調であり、【総武線×駅前タワマン】の図式が成立しつつある。この図式に乗っている以上、“プラウドタワー平井”も高額過ぎるということはないのだろう。
▲蔵前橋通り(北西)側から見た“プラウドタワー平井"。蔵前橋通り側は駐車場などが設けられる。
“プラウドタワー平井”の平均坪単価400~420万円は先発の2棟よりも高額に設定されているが、ここ数年の建築コスト上昇の中では、販売時期が1~2年ずれている分だけ自然とも言えよう。坪400万円というと、70㎡前後のファミリータイプではグロス価格8,000~9,000万円にも及び、購入可能な層は資金力のあるパワーカップルなどに限られてくるだけに、従来の「平井」の感覚ではまさに規格外の高級マンションと言える。その“規格外の高級マンション”が「平井」の街にどういった変化をもたらすのか、竣工を楽しみに待ちたいと思う。
平井から夢の島まで繋がる?“補助第144号線”が開通間近
「平井」で進行中のプロジェクトは駅前だけではない。平井駅通り商店街がゆりのき橋通りにぶつかる小松川区民館近くから、南西の京葉道路“亀戸九丁目”交差点に向かう道路、“補助第144号線”の整備が進められている。調査時点では立ち退きが完了し、舗装が進行中であったので、もう1~2年で供用開始となるのではないだろうか。元々、幅員5m程度の細い路地だったところを、15mほどの2車線+両側歩道の立派な道路に改築するもので、木造家屋密集地域の防火帯としての役割も担う。現在、補助第144号線沿いは立ち退きに伴う空き地や、暫定利用の駐車場が点在しているが、今後はこれらを活用した開発も進められてゆくことだろう。
▲平井二丁目で進められている補助第144号線の整備。
現計画では旧中川の手前で既存の道路に合流し、亀戸方面へは京葉道路を経由せざるを得ないが、将来的には旧中川への架橋も計画されている。旧中川を渡る道路橋が蔵前橋通り(江東新橋)~京葉道路(中川新橋)の約1kmにわたり無いところ、架橋が実現すれば渋滞緩和も見込める。加えて「平井」から都営新宿線「東大島」まで約2kmとなり、現状の小松川経由より400mほど短縮される。その先は“番所橋通り”を経て、国道357号(東京湾岸道路)まで繋がる計画で、全線開通の暁には「平井」から「東大島」「南砂町」「新木場」を経て“東京ゲートブリッジ”に至り「大森」や「羽田空港」まで繋がるというから、実に遠大な構想である。
▲将来的には2車線+両側歩道の広い道になる
4.駅別中古価格
最後に「平井」を取り巻くJR中央・総武線各駅停車・JR総武線快速の駅別中古価格を見てみよう。
▲データ集計:(株)東京カンテイ 直近3年、各年とも1~12月。30㎡未満および事務所・店舗用住戸は除外。赤太字は上位5駅、赤字は上位10駅。背景青地は快速停車駅。
「平井」の2022年中古価格は「御茶ノ水」―「千葉」間22駅中8位と、概ね中位に位置している。都心側となる「御茶ノ水」―「亀戸」の6駅が順当に1~6位を占めているが、城東地域の中心的な存在である「錦糸町」が坪300万円超となっており、隅田川を渡れば日本橋である「両国」よりも高い。快速が停車し半蔵門線も乗り入れること、東京スカイツリーの玄関口の一つとなっていること、錦糸町PARCO(楽天地)をはじめ高い商業集積を誇ることが理由として挙げられる。ただ、「御茶ノ水」―「亀戸」の各駅は平均専有面積が60㎡未満であり、地価が高いためファミリーというよりもコンパクトマンションの需要が高いことが窺える。
そうした中、「平井」は都心側から数えて初めて平均専有面積が70㎡前後となる駅であり、なるべく総武線の都心寄りでファミリー物件を探したい方にとっては注目すべき駅と言えるだろう。“シティハウス平井”“シティテラス平井”など、築10年以内のマンションが多数供給されているほか、“プラウドタワー平井”の再開発への期待感もあるだろう。平均築年も22.4年と、周辺に比べて比較的若いマンションが多い。
価格面でも「平井」は魅力が多い。千葉県へ入っても平均坪単価はあまり下落せず、快速停車の「市川」と、都営新宿線の始発駅である「本八幡」は坪200万円超と江戸川区内とあまり変わらず、「本八幡」に至っては「平井」よりも高いほどで、相対的に「平井」は割安感がある。ただし隣の「新小岩」は駅前の再開発があまり進んでおらず、「平井」や「小岩」のようなフラッグシップとなる大型マンションも少ないため、周囲よりも平均坪単価の伸びが少ない。「市川」周辺は千葉県有数の高級住宅地として人気があり、「本八幡」は再開発の進展によりタワーマンションが林立するようになっているため、中古価格を押し上げている。「下総中山」を過ぎると「船橋」「津田沼」といった快速停車駅が優位となりつつ、徐々に下落していく。
「平井」周辺 2020年代以降のマンション
おわりに
実査終了後、平井の銭湯“吉野湯”に立ち寄った。暑い時期の実査はやはり汗をかく。銭湯がある街であれば、汗を洗い流してから帰れるだけに、本当にありがたい。
▲平井の銭湯“吉野湯”。内装は近代的にリノベーションされており、非常に心地よい空間であった。
平井には銭湯が多く、駅1km圏内に6件もの銭湯がひしめく。“吉野湯”のような近代的な銭湯もあれば、昔ながらの宮造りを残す老舗もある。こうした“銭湯が元気な街”は、街も元気があるように感じられる。“一糸まとわぬ姿同士”だからか、老いも若きもいちど暖簾をくぐってしまえば、みな顔はどことなく緩むし、湯に浸かれば声が出る。そんな“心からリラックスできる空間”が街にたくさんあるということは、コミュニティの重要性が叫ばれる昨今、とても意義深いことと思う。
▲夜の平井駅。家路につく人々が、足早に改札口を抜けてゆく。
平井は色々な境目に接する街だ。旧中川と荒川放水路に囲まれた“島”のような平井は、江東・墨田と江戸川区の境であり、下町義理人情の世界と郊外ニュータウンの世界の境でもあり、少し先は東京23区と千葉県の境を成す。それだからこそ色々な要素がせめぎ合い、一つの街を形作っている。色々な要素がせめぎ合っているからこそ、周囲の個性的な街に比べて“尖った面”が少ない、と言えるのかもしれない。ただ、それは“住む人を選ばない、懐の深い街”ということも言えるのではないだろうか。没個性と言うなかれ、歩けば実に面白くて“ちょうどいい街”・平井だった。
※特記以外の画像は2023年7月筆者撮影。マンション図書館内の画像は当社データベース登録のものを使用しています。無断転載を禁じます。
賃貸不動産経営管理士
佐伯 知彦
大学在学中より郊外を中心とする各地を訪ね歩き、地域研究に取り組む。2015年大手賃貸住宅管理会社に入社。以来、住宅業界の調査・分析に従事し、2020年東京カンテイ入社。
趣味は旅行、ご当地百貨店・スーパー・B級グルメ巡り。
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