戦争世代の爺婆さん四人が健在というのは珍しかったし、今ほど遊びに行くところもなかった。前回は父方の祖父母が疎開先に選んだ町田市鶴川にある通称「武相荘」について触れたが、今回はもう一方母方の祖父母が暮らした古都鎌倉通称「山の上の家」について述べたいと思う。
文芸評論家小林秀雄(1902~1983)は、昭和6年鎌倉に移住し転々と借家住まいだったが、昭和23年(1948)初めて自宅を購入、昭和51年までの約28年間住んだのが雪ノ下の「山の上の家」だった。「鎌倉文士」も遥かなる感もするが、かの川端康成が鎌倉に引っ越したのも祖父の薦めだった。芥川龍之介の「田端文士村」や井伏鱒二の「阿佐ヶ谷会」など、地縁によるサロン的な繋がりは、文学史における重要なファクターになっていく。
「鎌倉文士」その象徴だった祖父の家からは、市街地の先に伊豆大島を遠望し、三方山に囲まれ南に海が開けているという「要害の地」鎌倉を具現化したような絶景の高台にあった。小林は、この景色に一目惚れ、鶴岡八幡宮裏山の急坂を登った先という、日々の暮らしの不便など思いを巡らせることなく即決し購入したという。
僕は小学校3年東京から鎌倉へ引っ越すまでは、その山の上の家で一泊することが度々だった。先のように昼間はいいのだが、当時、小林の題材であった『ゴッホの手紙』『近代絵画』そのきっかけになったゴッホの「烏のいる麦畑」(1890年)そのレプリカが廊下の奥に架かっていて、暗くて不気味な画は子どもには怖くて仕様がなかった。しかも、全体に薄暗い古い日本家屋は歩くとキー、キーと音が、特に夜中トイレに行くとき、その画の前を通らなければならず目をつぶって、と言っても暗いのだけれど強烈な印象が僕の中にずっと残っていた。
きっと子どもの頃から美術館好きなのも、展覧会のプロデュースの仕事に携わるようになったのも、三つ子の魂百ではないけれど、その画が出発点にあるのかもしれない。
さて、著作に「ここに来てから、名月で、独酌して夜を明かすことがよくある」と小林は述べているが、引越してすぐに明治期に建てられた日本家屋のリフォームに着手、南に面した一等の場所を書斎に、リビングや寝室は洋間に改装し、月見の庭には芝生を敷き詰めた。
僕も毎年祖父を真似名月を楽しんでいるが、昨今流行りの持続可能な社会とは何なのか?考えさせられる。本当に日常の生活を変えないで都市は維持できるのか?ウクライナの戦争に端を発する物価高やエネルギー問題のキモは、都市生活そのものへの警鐘ではないだろうか。ここや武相荘には小さいながら畑もあり、自給自足とまで言わないが、日常維持への深みがまだあったように思う。
駅近や買い物至便だけが住まい選びのアドバンテージではなく、都会の中であっても最低限のライフラインを維持していくため、そのあり方を少しづつ改善していければいいかなと僕は思っている。