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更新日:2023.09.06
登録日:2023.09.08
小岩駅・京成小岩駅――江戸川の流れと共に…"100年栄えるまちづくり"(東京都江戸川区/JR中央・総武線各駅停車・京成本線)①歴史編
小岩は東京と千葉を分かつ江戸川に接する、東京最東端の街の一つだ。“江戸川”という名からは“江戸を代表する川”というイメージが湧くが、江戸川の地域に「浅草」や「日本橋」といった江戸市中は含まれないのにこんな大きな名が付いているのも、不思議といえば不思議だ。今回は、そんな“江戸川”と共に歩んだ街「小岩」を2回にわたり触れ、再開発によって新たな魅力を備えつつある“新・下町”の歴史と未来について見ていこう。
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1.小岩の歩み
・なぜ“江戸川”?
さて、“なぜ江戸川は江戸を代表する川の名が付いたのか”だが、今なお東京都心にあって“江戸川”の存在感はあまり大きくない。特に「新宿」や「渋谷」をハブとする都心西側では、江戸川への親しみはほぼないといって良いだろう。“江戸市中の川”といえば神田川や隅田川であったし、文京区には東京メトロ有楽町線「江戸川橋」駅や“文京区立江戸川公園”といった名が残っている。文京区の“江戸川”はもちろん小岩の川ではなく、井の頭公園に端を発し日本橋で隅田川に注ぐ神田川のことであり、江戸城や城下町で用いる生活用水は専ら神田川に頼っていたというから(『江戸城の茶の湯に使う水を汲んだところが『御茶ノ水』というくらいだ)、神田川が“江戸川”であることに異論はないだろう。では、江戸市中にかすりもしないこの川がなぜ“江戸川”と呼ばれるようになったかといえば、この川が江戸にとって物流の要であったからだ。
▲江戸川越しに眺める小岩の街並み。東京スカイツリーへも程近い。(市川市側から撮影)
江戸時代以前、江戸川は“太日川”(ふといがわ、ふとゐがわ)と呼ばれていた。かつて東京湾に注いでいた利根川下流部の支川にあたり、本流は現在の大落古利根川を経て隅田川にあたる流路であったが、江戸の水害防止のため江戸幕府が始めた利根川東遷事業により、利根川は常陸川に結ばれて千葉県最東端の銚子を河口とする流路に付け替えられた。旧流路と新流路の分岐点となったのが関宿(せきやど、千葉県野田市)で、付け替えの際に関宿以南が“江戸川”と呼ばれるようになったものと考えられる。
▲“江戸時代以前の江戸川は太日川と呼ばれていた”ことを伝える“市川関所跡”の説明板。(市川市)
今もそうだが、銚子は江戸時代から水産業の街であった。銚子自体が漁業の基地であったことに加え、いわゆる東廻海運(東北地方と江戸を結ぶ航路)も銚子を経由した。江戸時代から百万都市であった江戸へと魚や米を運ぶべく、多くの廻船が銚子から利根川を遡り、関宿で折り返して江戸川を下り、日本橋へ至るルートを辿った。これら廻船が江戸へ至る前、最後に下る川こそが“江戸川”だったわけだ。
▲江戸川を渡る市川橋。
鉄道が発達するまで、外洋の荒波に揉まれずに船が進める川は物流の要であり、江戸にとって最も重要な役割を果たした川が“江戸川”であった。江戸は数多の川が東京湾に流れ込み、水害リスクが高い低湿地が広がっていたのであるが、物流に加え防衛(幕府は防衛の観点から多摩川や江戸川の江戸の架橋を殆ど認めなかった)面でも有利であったからこそ、同時代のロンドンやパリを凌ぐ巨大都市に成長できたと言えよう。江戸が築いたインフラが、今日の東京の基礎になっていることは言うまでもない。
・江戸川を渡った“小岩市川の渡し”
現在、小岩と江戸川対岸の千葉県市川市は“市川橋”によって結ばれている。2桁国道の国道14号(千葉街道)が通り、東京・千葉を結ぶ橋の中では葛飾橋(葛飾区金町~松戸市)と並んで最も歴史が長い橋の一つであるが、市川橋の前身となったのが“小岩市川の渡し”であった。前回の「平井」編でも述べたが、現在の国道14号千葉街道の前身は“元佐倉道”と呼ばれ、江戸東方の要として栄えた佐倉や、江戸市中からも大きく信仰を集めた成田山新勝寺へ向かう人の流れは多かった。このため、江戸幕府は“小岩市川の渡し”の渡し場に“小岩市川関所”を設けて武士四人を駐在させ、いわゆる“入鉄砲に出女”を厳しく取り締まった。渡し場の番小屋には常に2~3艘の舟と20人前後の船頭・人夫が詰めており、「御関所附渡船之村方」(おせきしょつき とせんの むらかた)とも呼ばれたという。こうして関所周辺は“小岩御番所町”と呼ばれ、現在の江戸川区内で最も早くから拓けた町となった。
▲市川市側には“市川関所跡”が再現されているが、度重なる護岸工事等の影響で、関所跡地は不詳となってしまったという。
“元佐倉道”→千葉街道は小岩から真っすぐに平井・亀戸方面へと伸びているが、“元”の名が付いているように、江戸時代に“佐倉道”、つまりメインルートとして機能したのは日光街道千住宿から水戸街道を経て、葛飾区新宿(にいじゅく)で分岐するルートで、現在“親水さくらかいどう”(江戸川区)、“さくらみち”(葛飾区)の名が付いている。京成本線「千住大橋」から「京成小岩」「江戸川」に至るルートに近く、元々人の流れがあったであろうことがわかる。日本橋から東の佐倉や成田へ向かうのに、いったん北の千住を経由するとは遠回りに思えるが、当時の元佐倉道沿いは宿場もなく、街道として整備されているとは言い難かったのに対し、途中まで日光街道・水戸街道を経由する“佐倉道”は日光街道最初の宿場・千住宿をはじめとしたインフラが整っていたから、多少遠回りでも安全かつ確実だったのだろう。
▲“小岩市川の渡し跡”(江戸川区側)。対岸は千葉県市川市。
“元佐倉道”と“佐倉道”は“小岩市川の渡し”の目の前だった伊予田村で合流していた。また、埼玉県さいたま市岩槻の慈恩寺への参詣路であった慈恩寺道(葛飾区内に“岩槻街道”の名が残る)も“小岩市川の渡し”に接続しており、この慈恩寺道は塩田で知られた東京湾岸の行徳(市川市)から内陸へと塩を運ぶ“塩の道”であったともいうから、小岩は古くから人が集まるポイントであったことがわかる。1869年(明治2年)に関所は廃止され、1905年(明治38年)に江戸川橋が架けられたことで“小岩市川の渡し”は役割を終えた。現在でも市川橋の小岩側“江戸川”交差点で国道14号と蔵前橋通りが合流して市川橋を渡っており、JR総武線と京成線の江戸川鉄橋もここを通る。今も昔も、小岩は千葉との境目を成す街なのだ。
▲京成線江戸川駅前には“御番所町の慈恩寺道石造道標”が残っている(写真右下の石柱)。
▲“御番所町の慈恩寺道石造道標”の解説。はるか埼玉県岩槻との結びつきがあったことがわかる
小岩の由来は“甲和”?
「小岩」という地名からは、江戸川に伊勢二見の夫婦岩のような神聖視された岩でも浮かんでいたのだろうかと想像していたが、実のところ由来はよくわかっていないという。奈良・正倉院の“下総国戸籍”(721年・養老5年)に“甲和里”(こうわのさと)、44戸・人口452名という記述が“嶋俣里”(しままたのさと、現在の葛飾区柴又に比定される)などと共に残っているといい、これが転じて「小岩」になったのか、または元々コイワであった里に“甲和”の好字を充て、後に原義に近い「小岩」に戻ったのかは定かではない。また、江戸川の河底に岩盤があって、これがガラガラと鳴り響くので“がらめき川”“がらめき瀬”と呼ばれていたという。対岸の市川市国府台(こうのだい)の下総台地を前にした自然堤防が形成されていたといい、川を流れてきた岩石が溜まりやすい状況だったのかもしれない。下流なので、大きな岩も角が削れて「小岩」になっていただろう。いずれにせよ、「小岩」が江戸川に関係する地名なのは違いなさそうである。
▲京成小岩駅北口の商店街には「甲和の里」の文字が見られる
・総武鉄道と京成電車の開通
1894年、総武鉄道が「本所」(ほんじょ、現『錦糸町』)―「佐倉」間で開業した。7月段階では江戸川の架橋が間に合っていなかったため「市川」止まりであったが、同年12月に東京側の仮ターミナルであった本所へ延伸している。ただ、当時は「本所」~「市川」に途中駅はなく、5年後の1899年になって「小岩」および「平井」の両駅が開業した。1904年に本所から当初の都心側ターミナルとされた「両国橋」(現『両国』)まで延伸、前年に「両国」まで来ていた東京市街鉄道(1907年より東京市電、後の都電)と乗り換えができるようになった。1907年に総武鉄道が国有化されて国鉄総武本線となっている。
▲現在のJR小岩駅(北口)。2019年には開設120周年を迎え、「平井」と並んで江戸川区内で最も歴史ある駅の一つ。
総武線「小岩」開業から13年後、1912年には京成電気軌道が「押上」―伊豫田(いよだ、現『江戸川』)間で開業した。江戸川の架橋に時間がかかったため、暫定的に江戸川の手前まで開業したものだ。なお暫定的な終点であった伊豫田駅は1899年の小岩村成立と共に消滅した伊予田村の名を冠しているが、伊予田村はかつての“小岩御番所町”にあたり、農村地帯であった中小岩や下小岩とは違う、という誇りが地元にあったのかもしれない。とはいえ既に存在しない村名では不便だったのか、開業2年後の1914年には江戸川を渡って「市川真間」まで延伸、この時に「江戸川」へと改称している。京成本線は以後小刻みに延伸を繰り返し、当初は千葉方面が優先され1921年に「京成千葉」、1926年に「京成津田沼」から分岐して当初の目標である成田花咲町(『京成成田』延伸までの仮駅)に達している。
▲京成線江戸川駅前の商店街。このすぐ右手は江戸川土手で、“小岩御番所町”と呼ばれたのもこの辺り。
1932年にはそれまで駅が無かった「京成高砂」―「江戸川」間に「京成小岩」が開業。1932年という時期は京成本線が「京成成田」まで開通する1930年よりも後であったが、これは総武線「小岩」を中心として拡大してきた市街地が京成本線の線路近くにまで及び、追って駅を設置したという経緯による。1933年には総武線の中央線直通運転が始まり「小岩」から「秋葉原」「新宿」などへ乗り換えなしで結ばれるようになった。また、京成本線も1931年に「青砥」―「日暮里」が開業して山手線に直結し、1933年には上野公園(現『京成上野』)へと延伸している。このように、総武線と京成本線は競い合うように新駅設置や路線延伸などの改善・整備が進められていった。
▲小岩御番所町の説明。江戸時代は“小岩”といえば江戸川べりであったが、現在は静かな住宅地だ。
現在のJR総武線と京成本線・京成千葉線は「小岩」―「千葉」・「京成小岩」―「京成千葉」間で300m~1kmほどの間隔をおいてぴったりと並行するが、これは貨物列車や軍事輸送など、広域的に“モノ”も運んだ総武線と、“佐倉道”に代わって東“京”と“成”田を結ぶ“ヒト”の輸送に特化した京成本線で役割が違ったことによるものだ。「小岩」「京成小岩」から都心側は“元佐倉道”に近い総武線と、“佐倉道”および水戸街道・日光街道に近い京成本線で分かれていくが、これも最短ルートを志向した総武線と、江戸時代以来の“佐倉道”に近いルートを選択した京成本線という違いがよく表れている。総武線と京成本線は「津田沼」「京成津田沼」を境に、県都千葉を経由する総武線と、佐倉街道・成田街道に近いルートを辿る京成本線とに分かれていき、成田でまた出会うというように、同じようなところを通っていても性格が違うというのが面白い。
▲京成小岩駅。現在はこちらの方が規模が大きいが、隣の江戸川駅の方が長い歴史を持つ。
・小岩町から江戸川区への発展
1899年の総武鉄道「小岩」駅の開業と共に江戸期以来のままだった行政区域も再編され、上小岩村・中小岩村・下小岩村・小岩田村(小岩新田)・伊予田村(小岩市川の渡し付近)が合併し“南葛飾郡小岩村”が成立。しばらくは江戸期とあまり役割が変わらず、小松菜などを生産する近郊農業地帯としての役割は変わらなかったが、1925年の関東大震災発生は「小岩」発展の契機となった。既に木造家屋が密集していた「両国」「錦糸町」「浅草」などの下町一帯が地震による大火に見舞われて灰燼と化したことで、総武線や京成線で結ばれる近隣へと住宅や工場を移転し、再起を図る流れが生まれたからだ。
▲葛飾区鎌倉に残る“小岩用水跡地”。小合溜井(現・葛飾区水元公園)を水源とする農業用水路で、かつて周辺が農業地帯であったことを物語っている。これら農地は都市化により、現在は殆ど消滅した。
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金町駅――若さみなぎる下町人情タワマンストリート(東京都葛飾区/JR常磐線各駅停車・京成金町線)
「ワタクシ、生まれも育ちも葛飾柴又です。帝釈天で産湯をつかい、姓は車、名は寅次郎、人呼んでフーテンの寅と発します」とは、映画“男はつらいよ”の主人公、“寅さん”こと車寅次郎を演じた渥美清の名調子――とは、説明するまでもないだろう。その寅さんの故郷、柴又…
関東大震災以後の人口流入、総武線・京成線を中心とした交通インフラの整備による市街地の発展を受けて1928年には“南葛飾郡小岩町”となり、1932年、小岩町を含む南葛飾郡内の3町4村が合併し“江戸川区”が成立。しかしながら区成立当時の人口や約10万人と、現在の6分の1にも満たなかった。「小岩」は江戸川区の北端にあたるが、概して交通が不便であった区のなかで総武線と京成線の2路線が通る地域は「小岩」しかなく、国道14号千葉街道も通過する区内随一の交通に恵まれた地区であったため、長きにわたり江戸川区で最も栄えた地区の座を占めた。
▲「今昔マップ on the web」より1917年の地形図(東京首部)。中央やや左に「こいは」駅、中央やや右に「えどがは」駅が確認できるが、「こいは」から斜め右下の千葉街道へまっすぐ向かう道が無く、古くからの集落をうねうねとたどる道以外は殆どが田畑であった。一方、対岸の「いちかは」駅から市川橋対岸にかけては既に密集市街地となっている。右上の“國府臺(国府台)”に陸軍の拠点が置かれたことによるもので、“西練兵場”“野砲兵營”などが確認できる。「京成小岩」はまだ開業していない。
「小岩」駅開業当初は南側の千葉街道と直接結ぶ道がなく、現在のフラワーロード商店街の原型となった細い道が南西方向へうねるように伸びているのみであった。このため、南東の千葉街道へまっすぐ繋がる“昭和通り”と、東側の小岩町役場(現・江戸川区小岩区民館)を経て市川橋へ至る“サンロード”が1927~1939年にかけて拓かれ、「小岩」駅南口は南西へ“フラワーロード商店街”、南東へ“昭和通り商店街”、東へ“サンロード商店街”の3つの商店街が放射状に伸びるという、近代的な市街地が形成されることとなった。総武線に遅れること90年弱、1986年の都営新宿線開通まで駅が無かった「瑞江」や「篠崎」、また「柴又」「金町」などを結ぶバス路線も整備され、これら地域からも広く人が集まる「小岩」は区内随一の商業地として発展した。現在でも「小岩」の人の流れはこれら3つの商店街を基本としており、およそ100年もの間「小岩」の街の骨格となっているのだ。
▲小岩駅南口から真っすぐに伸びる“昭和通り商店街”。その名の通り、千葉街道までの最短ルートとして拓かれた新道だ。
しかしながら、街の発展が区内で最も早かったために高い商業集積や中心性を持つということは、狭く曲がりくねった道が多いのに加え、老朽化した木造家屋も多く、災害への備えといった面で不安を抱えていることの裏返しでもある。北口にはいまだ駅前広場が無い上、公園面積23区ナンバーワンを売りにする江戸川区の中では例外的に公園や緑地が少なく、災害時の避難場所も不足している。北口に駅前広場がないため「柴又」「金町」へ向かう北側へのバスも現状は南口に集中しており、バス乗り場に入りきれないバスが渋滞を起こしているほか、南口駅前広場は商店街と駅を往来する歩行者が車道にまで溢れて危険であるなど、問題を抱えているのも事実である。
▲夕ラッシュの人やバス・クルマで混雑する小岩駅南口。広くない駅前広場を、多くの人々が行き交っている。
次回:過去から現在、未来へ
街が抱える課題を解決するため、江戸川区では“100年栄えるまちづくり”をキャッチフレーズに、フラワーロード・昭和通り・サンロード整備以来最大となる規模の市街地再開発事業を駅の南北で矢継ぎ早に進めている。その第一号となったタワーマンションの建設は既に姿を現しており、雑然としていた「小岩」駅前は未来の姿が想像できるようになってきている。次回は、100年ぶりの再開発に期待が高まる「小岩」を歩きながら、「小岩」の現状と将来について見ていこう。
▲再開発の先陣を切った「アルファグランデ小岩スカイファースト」(左)と「プラウドタワー小岩ファースト」(中央)および商業棟「ファスタ小岩」(右)。将来はタワーマンションや大型商業施設が林立する景色に一変することになる
▼次回▼小岩駅・京成小岩駅――江戸川の流れと共に…"100年栄えるまちづくり"(東京都江戸川区/JR中央・総武線各駅停車、京成本線)②未来編 2023/9/22(金) 10:00 公開予定
小岩駅南口再開発地区のマンション
※特記以外の画像は2023年7月筆者撮影。マンション図書館内の画像は当社データベース登録のものを使用しています。無断転載を禁じます。
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「JR中央・総武線各駅停車」沿線をもっと知りたい方は・・・
平井駅――“平井の未来はタワーマンションが変える”…東京の近代化と共に歩んだ下町(東京都江戸川区/JR中央・総武線各駅停車)
江戸川区「平井」といえば“小松菜発祥の地”であり、江戸川区で唯一“荒川より手前にある街”でもある。地図を見ると、なぜ江東区・墨田区ではなく江戸川区に属しているのかが不思議なほどだ。しかし、その陰には“江戸”から“東京”への移り変わりと共に、街の近代化・発展を目指して努力した…
賃貸不動産経営管理士
佐伯 知彦
大学在学中より郊外を中心とする各地を訪ね歩き、地域研究に取り組む。2015年大手賃貸住宅管理会社に入社。以来、住宅業界の調査・分析に従事し、2020年東京カンテイ入社。
趣味は旅行、ご当地百貨店・スーパー・B級グルメ巡り。
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