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更新日:2023.04.12
登録日:2023.04.07
新横浜駅――60年目の大変革!相鉄・東急新横浜線開通で“県内ハブ”へ! (横浜市港北区/東急新横浜線・相鉄新横浜線・東海道新幹線・JR横浜線・地下鉄ブルーライン)
「ただいま小田原駅を時刻通りに通過いたしました。次の新横浜駅にはおよそ13分で到着いたします」 …これを聞いて気を引き締める人、期待に胸を膨らませる人、帰ってきた安らぎを覚える人、旅の終わりの寂しさを覚える人。上り東海道新幹線が「新横浜」に着く前、決まってこのアナウンスが流れる。「新横浜」といえば上り東海道新幹線“のぞみ”における首都圏最初の停車駅であり、また東海道新幹線における370万都市・横浜の顔となる駅であるが、「東京」「品川」「上野」「大宮」といった1都3県の新幹線ターミナル駅で唯一既存の「横浜」に併設されなかったために、数奇な運命を辿った駅であり、街である。2023年3月18日の相鉄新横浜線・東急新横浜線開通という大きな出来事を経たこの街を今一度歩き、深掘りしてみよう。
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1.新横浜の歩み
戦前から計画されていた「新横浜」
横浜には意外と“横浜”が付く駅が少なく、「横浜」以外に4駅しかない。「新横浜」のほかに市営地下鉄ブルーライン「北新横浜」、相鉄線「西横浜」、そして2020年にできたばかりの相鉄新横浜線「羽沢横浜国大」があるだけで、その4駅中3駅が「新横浜」の隣駅に固まっているあたり、「新横浜」がいかに横浜の中でも新しい地域であるかがわかるだろう。対して「浦和」や「千葉」は派生駅名がかなり多い。国内最多の人口を有する市である横浜は「桜木町」「関内」「みなとみらい」「元町・中華街」など「横浜」が付かずとも地域のイメージが掴みやすい地名が居並んでおり、地域ごとの個性が際立っていて、大きな地名である「横浜」に頼る必要性が薄いということだろうか。
▲相鉄新横浜線「羽沢横浜国大」(写真は東急線直通前のもの)
「新横浜」は東海道新幹線ありきで建設、開発が始まった街であり、東海道新幹線抜きに新横浜を語ることはできない。東海道新幹線の原型となったのは、戦中の1940年に建設が始まった“弾丸列車計画”に遡る。「東京」―「下関」を結び、関釜航路(『下関』―『釜山』)を介して京城(現:ソウル)や新京(現:長春)など朝鮮半島および満洲へのアクセスを担う計画であったが、戦局の悪化により1943年に中断。新丹那トンネル(静岡県)など、難工事個所がいくつか建設が進められた以外は手つかずのまま終戦となり、アジア連絡を果たすことはできなかった。弾丸列車計画の時点で横浜線の隣駅「菊名」に駅を設け、「横浜」駅は経由しない計画であった。もし「菊名」に弾丸列車の駅が設けられ、それがそのまま新幹線となっていたならば、「新横浜」の街は生まれず、横浜線や東急東横線との連絡は自動的に果たしていたので、市営地下鉄ブルーラインや東急・相鉄新横浜線も開通しなかったのかもしれない。
▲戦前は東京・大阪間ですら電化されず、蒸気機関車が中心だった。“弾丸列車”はそのような時期から計画された(京都鉄道博物館)
戦後の東海道新幹線建設にあたっては、アジア連絡の要であった「下関」終点の計画を「新大阪」に改めるなどはあったが、概ね弾丸列車計画のルートが引き継がれた。ただ横浜周辺の建設に際しては、谷底に密集市街地が広がり、開発の余地が少なかった「菊名」への併設をやめ、「菊名」から1.3km西側に「新横浜」駅を設けることとなった。横浜市は「横浜」駅への新幹線駅併設や、「横浜」や「川崎」からも便利な「新子安」への駅設置を求めたが、速達性を欠く上に用地買収に時間がかかるという理由で却下されてしまったようだ。「新横浜」駅設置場所は鶴見川沿いの平坦な農地が広がるのみで、横浜の新たな玄関口としての開発の余地が大きかったことに加え、横浜線との連絡による「横浜」駅への結節は変わらず果たされたものの、東急東横線と直結できなかったため、東京方面への連絡は課題を残すこととなった。
▲1956年から東京-大阪間に電車が走り始めたが、特急でも7時間前後を要した(80系電車。京都鉄道博物館)
「新横浜」周辺は、住所としての“新横浜”が設置されるまで“篠原町”・“鳥山町”(西)・“岸根町”(南)・“大豆戸町”(東)に跨っており、その中に“勝負田”(しょうぶだ)や“蛇袋”(じゃぶくろ)という字(あざ)が存在していた。何やらおどろおどろしい名であるが、これは西から流れてきた鶴見川が北に90度向きを変える地点に鳥山川が合流するという地形ゆえ、水害が多かったという経緯による(古い地名では氾濫水などの水害を蛇に例えることが多い)。現在でも新横浜1丁目に“蛇骨神社”(じゃこつ―)という小さな祠があり、静かにこの地の歴史を伝えている。そのような地に突如として新幹線駅が建設されたのだから、地域に与えたインパクトの大きさは計り知れない。当時の写真を見てみると、鶴見川沿いに広がる一面の田んぼの中に、まっすぐに伸びる新幹線の線路と駅が忽然とある――という光景であった。
▲新横浜1丁目の「蛇骨神社」。目立つ一本杉は“大蛇の頭を抑える杖が姿を変えたもの”という伝説が残る
東海道新幹線「新横浜」駅開業
東京五輪10日前の1964年10月1日、東海道新幹線「東京」―「新大阪」間の開通と共に「新横浜」駅も開業し、横浜線の駅も同時に設置された。ただ当時は田園地帯の只中であったのに加え、接続する横浜線も単線で本数が少なく、「横浜」駅への連絡に難があったことから「東京」―「新大阪」を途中「名古屋」・「京都」のみ停車の3時間10分で結んだ「ひかり」の停車駅とはならず、各駅停車の「こだま」が1時間1~2本停車するのみであった。各駅停車とはいえ当時は駅が少なく、「ひかり」に対し「小田原」など7駅に追加で停車するのみだったので「新横浜」―「新大阪」は3時間40分で結ばれ、それまでの在来線特急「こだま」が「横浜」―「大阪」に6時間25分を要していたのに比べれば、劇的な短縮となった。
▲東海道新幹線のパイオニア、0系新幹線。世界初の高速鉄道として、世界的に知られる。(京都鉄道博物館)
「新横浜」駅設置に合わせ、横浜市屈指の幹線道路である横浜環状2号線のトップを切る形で「新横浜」駅周辺が開通したほか、翌1965年には第三京浜道路(高速道路)港北ICが鶴見川対岸に設置。横浜市中心部へのアクセスとして“新横浜通り”が建設されたほか、単線だった横浜線も乗客の急増により複線化が進められ、1960年代のうちに「新横浜」を含む「東神奈川」―「小机」の複線化が完了している。1960年代の新横浜は飛鳥田一雄横浜市長の指揮のもと、横浜第二の玄関口を造るべく道路や鉄道といったインフラ整備が急ピッチで進められ、今日の基礎が形成された時期であった。
▲「新横浜」に到着する横浜線。新幹線駅と交差する位置に横浜線にも駅が設けられた。
ただ1970年代に入ると、飛鳥田市政の力点が“横浜市六大事業(※)”(1965年発表)に移っていったこともあり、新横浜の開発は駅設置から10年を経てもあまり進まず、開業から11年を経た1976年に「ひかり」1往復が初めて「新横浜」停車となった程度で、街自体の変化は少なかった。この時期は新横浜とも密接に関わる港北ニュータウンの開発に力が注がれ、1969年に都市計画決定、1983年に第二地区(現在の『センター南』)街びらきを迎えている。
▲港北ニュータウンの遠景。中央左の円筒形のビルが新横浜プリンスホテル。同NTは新横浜と深い関係にある。
(※)横浜市六大事業
飛鳥田一雄横浜市長(“あすかた いちを”、在任1963-1978)が1965年に発表した横浜市の都市計画の総称。当時120万人程度だったなか「300万都市をめざして」を題名とする先見性があった。現在では人口370万人まで増加し、六大事業は現在の横浜市を支える基礎的なインフラとなっている。なお、③港北ニュータウン開発や④地下鉄建設で間接的に影響は受けたものの、新横浜の開発は六大事業には直接含まれなかった。
①都心部強化(みなとみらい地区の建設)
②金沢地先埋立事業(八景島など金沢シーサイドライン沿線地区の建設)
③港北ニュータウンの建設
④横浜市営地下鉄の建設
⑤高速道路の建設(首都高速横羽線・横浜横須賀道路など)
⑥横浜ベイブリッジの建設(首都高速湾岸線含む)
1985年には新横浜3本目の鉄道となる横浜市営地下鉄ブルーライン「横浜」―「新横浜」間が開通し、横浜市街との連絡がさらに強化されたものの、港北ニュータウンへの連絡は実現していなかった。地下鉄開通で利便性が向上したことを受けて東海道新幹線「ひかり」の停車も増え、半数程度が停車するようになった。1993年にはブルーライン「新横浜」―「あざみ野」間が延伸開業し、港北ニュータウンと新横浜が地下鉄一本で直接結ばれるようになったほか、「あざみ野」で東急田園都市線と接続したことで横浜市青葉区や川崎市宮前区などからの東海道新幹線アクセスが大きく向上、「新横浜」の利用圏が広がることとなった。
▲港北ニュータウンと新横浜・横浜を結ぶ横浜市営地下鉄ブルーライン。(センター北)
“横アリ”“ラー博”“日産スタジアム”で“人が集まる街”に
1990年代以降の新横浜は、単なる東海道新幹線と横浜市街を結ぶ通過点であったのが、徐々に新横浜自体が“人が集まる街”へと変化してゆく。その端緒となったのが1989年にオープンした“横浜アリーナ”である。松任谷由実のコンサートを杮(こけら)落としにサザンオールスターズ(毎年カウントダウンライブを開くことで有名)、ゆず、小田和正など神奈川ゆかりのアーティストのみならず、国内外を問わない多くのアーティストがコンサート会場として用いているほか、“ディズニー・オン・アイス”などのアイスショー、格闘技、球技など、コンサート以外の使用も多い。1990年からは横浜市の成人式(成人のつどい)会場にもなり、全国最多の参加人数を誇る成人式会場となっている。
▲横浜アリーナ。「新横浜」駅から徒歩6分と近く、ビッグネームのコンサートも数多く催される。
1998年の横浜国際総合競技場(日産スタジアム)のオープンおよび2002年のサッカーワールドカップ日韓大会の開催は、新横浜が国際的に認知されるようになったきっかけをつくったと言えるだろう。オープン以来横浜F・マリノスがホームスタジアムとしているほか、サッカーワールドカップではグループリーグで日本対ロシアが対戦し、日本がワールドカップ本大会史上初の勝利を収めるなど、横浜F・マリノスばかりでなく多くの国際試合が開かれている。2020年東京五輪でも、日本対フランス(グループリーグ)、韓国対メキシコ(準々決勝)、ブラジル対スペイン(決勝、ブラジル優勝)などが日産スタジアムで開かれたが、無観客となってしまったのは残念というほかない。
▲日産スタジアム。2002年ワールドカップで稲本潤一がロシア相手にゴールを決め、1-0で日本が初勝利を飾った地である。
新幹線の停車本数が徐々に増え、2008年にはついに「のぞみ」も含む全列車停車となるなど、中京・関西方面への往来が格段に便利になった。このため中京・関西企業の関東支社の立地として新横浜が適するようになり、何もなかった駅周辺は徐々にオフィスビルが集積するようになっていく。
▲カリモク家具新横浜ショールーム。愛知県に本社を置く大手家具メーカーで、関東最大級の拠点が新横浜。
みなとみらいや中華街など観光スポットに事欠かない横浜都心部に対し、新横浜は歴史が浅い分そういった見どころは多くないが、新横浜の観光スポットとして最も有名なのが“新横浜ラーメン博物館”であろう。1994年のオープン当初、新興オフィス街であった新横浜では昼食場所に事欠いたようで、“新横浜のオフィスワーカーに昼食を提供しつつ、土日はめっきり人通りが減るオフィス街へ人を呼び込む”ことを両立するものとして“フードアミューズメントパーク”という発想に至ったのだそうだ。6か月パスは入場料2回分よりも安い(1回380円、6ヶ月500円)といった価格設定になっているあたり、開館以来周囲のオフィスワーカーに支持されている様子が窺える。
▲新横浜ラーメン博物館。多くの“日式拉麺”を一度に味わえるとあって、中国からの観光客も大変多かった。
これら複数のイベント施設がオープンしたことで、60年前こそ単なる横浜市中心部とのアクセスポイントでしかなかった新横浜は、平日・休日を問わず、多くの人々が様々な目的で訪れる街へと変化を遂げた。だが、横浜市中心部こそJR横浜線・市営地下鉄ブルーラインと2路線で結ばれているものの、東京方面へは新幹線しか直通する鉄道路線がなかった。新横浜自体が大きく成長したことで、従来は横浜市内各所へのアクセスに対応していればよかったのが、東京方面へ直通する鉄道が求められるようになったと言えよう。サッカー国際試合などの大イベント終了時、「菊名」で東急東横線に乗り換える帰宅客がJR横浜線の「新横浜」―「菊名」の1駅間に殺到し、猛烈に混雑する…というのは、もはや街の風物詩となりつつあり、そのこと自体が街全体の悪評に繋がりかねなかった。
▲東急新横浜線開通前、新横浜でのイベント開催時は「菊名」も大変な混雑に見舞われていた。
そこに大きな期待を背負って開通したのが「東急新横浜線」・「相鉄新横浜線」だ。相鉄・東急新横浜線の開通がこの街をどう変えていくかは、3章「新横浜のこれから」で改めて触れることとしよう。
▲相鉄・東急新横浜線開通を祝う垂れ幕。開通日の新横浜はまさにお祝いムードに包まれた。
新横浜ラーメン博物館 周辺のマンション
2.新横浜を歩く
新横浜は新幹線の線路を境目に、大きく“北口”と“篠原口”(南側)に分かれている。まずはメインとなる北口に降り立ってみよう。
▲「新横浜」駅ビル、キュービックプラザ新横浜。新横浜の玄関口として、かなりの存在感を誇る。
街のイメージを変えた“日産スタジアム”の本旨は“鶴見川遊水地”
“横アリ”と並ぶ新横浜の顔が、“日産スタジアム”こと横浜国際総合競技場だ。
▲日産スタジアム・東ゲート。東ゲートは「新横浜」、西ゲートは「小机」駅寄り。ほぼ1駅に跨る規模を誇る
日産スタジアムを含む“新横浜公園”の敷地は“鶴見川多目的遊水池”の上部利用として確保されたものだ。上述のように新横浜周辺はもともと鶴見川の氾濫原であり、さらに鳥山川が合流する地点で流路が90度向きを変えるという水害多発地点であった。しかしながら「新横浜」から徒歩10~15分、横浜線「小机」から徒歩8~10分というアクセス至便な地であり、河川敷によくある野球場やゴルフ練習場では勿体ない。そこで、鶴見川と鳥山川に挟まれた三角地を遊水池としつつ人工地盤で覆い、その上にスタジアムを建てることで、水害防止と土地の有効利用を両立することになったのだ。
▲スタジアムの下は駐車場や遊水池。増水時は全員が15分以内に人工地盤上に避難できる設計になっている。
結果、“新幹線の駅から徒歩圏”かつ高速道路(第三京浜港北IC)・鉄道4路線至近の陸上・サッカースタジアムという、他に類を見ないスタジアムが誕生することとなった。1999年に開場し、2002年のサッカーワールドカップ日韓大会の中心的な役割を果たしたのは上述の通りだ。超広域の集客という強みを背景に、下剋上も珍しくないJリーグJ1を横浜F・マリノスは強豪として生き抜いており、2022年シーズン終了時点でJ2降格を一度も経験していない“オリジナル10”は、他に鹿島アントラーズ(茨城県鹿嶋市)があるだけだ。
▲日産スタジアム西ゲート。選手と自動車を絡めた大きな広告が目立つ。
日産スタジアム開場まで横浜F・マリノスはニッパツ三ツ沢球技場(市営地下鉄ブルーライン三ツ沢上町駅徒歩15分)をホームとしていたが、1955年開場で観客スタンドの屋根がない、トイレの数が足りないなど設備面で課題を抱えていたことに加え、最大収容人数約15,000人と、Jリーグ屈指の人気クラブにしてはキャパシティも低かった。この点、日産スタジアムは国際大会も十分可能な設備を持ち、交通アクセスは至便、最大収容人数約78,000人と、埼玉スタジアム2002(約63,000人収容)、国立競技場(約60,000人)を凌ぐ国内最大のキャパシティを誇る。
▲スタジアム自体は新横浜の街中からも近くに見えるが、あまりに大きいのでなかなか近づかないほど。
もともと横浜F・マリノスは日産自動車サッカー部を前身としており、1992年のJリーグ発足当初から加盟している“オリジナル10”のうちの1チームで、運営会社の親会社は現在も日産自動車である。日産自動車は横浜駅東口すぐのみなとみらい地区に“日産自動車グローバル本社”を構えており、創業以来の主力工場が横浜に位置するなど、横浜とのかかわりが非常に深い。その横浜に国内最大のスタジアムが誕生するとあって、2005年以来“日産スタジアム”のネーミングライツを保持し続けている。
▲「新横浜」駅から続く「F・マリノス通り」。もちろんチームカラーの赤白青に彩られている。
「新横浜」や「小机」から日産スタジアムへの道に“この街には、横浜F・マリノスがある。”のキャッチフレーズがはためき、地域一丸となってF・マリノスを応援しているのがよくわかる。横浜市中心部では関内が近いだけに野球(横浜ベイスターズ)人気が高いようにも思うが、F・マリノスは多くの人口を抱える港北区を地盤としている強みがある。
▲「小机」駅から日産スタジアムへの道に掲げられている横断幕。幕自体が覇気を放っているかのよう
横浜F・マリノス最大のライバルといえば、お隣川崎市の“川崎フロンターレ”ではないだろうか。ヴェルディ川崎(→東京ヴェルディ1969)に代わり、等々力陸上競技場をホームとする川崎フロンターレ(富士通サッカー部を前身とする)とは“神奈川ダービー”の好カードであり、互いの本拠地が隣同士(横浜市港北区/川崎市中原区)ということもあって特に盛り上がる。2023年シーズン以降は「新横浜」と「新丸子」(等々力陸上競技場最寄り駅)が東急新横浜線~東急東横線直通列車一本で結ばれることになり、サポーターもホーム・アウェイの移動がさらに至便となった。近年は川崎フロンターレ22勝:横浜F・マリノス19勝(9引き分け)とフロンターレが優勢だが、マリノスは相鉄・東急新横浜線開通による集客増を追い風に、反転攻勢に打って出られるだろうか。
相鉄・東急新横浜線開通は、横浜アリーナ・日産スタジアムといった大型集客施設、およびホテルなど関連する施設の稼働向上といった面でも、大きな期待を集めている。
日産スタジアム 周辺のマンション
“プリンス”“横アリ”“スケート”…新横浜と西武グループ
「新横浜」でひときわ目立つのが、新横浜プリンスホテルの円筒形のタワーだ。42階建、レストラン7軒、客室904室という規模は神奈川県内最大を誇り、その高さと形から遠く離れたところからもよく見える。1992年開業とそれなりに歴史を重ねているが、いまだ神奈川県最大の座を譲っていない。1~4階には商業施設“新横浜プリンスペペ”を併設し、駅ビル“キュービックプラザ新横浜”が2008年にオープンするまでは、新横浜唯一の大型商業施設であった。斜向かいに横浜アリーナがあり、プリンスホテル・ペペと歩道橋で結ばれている。遠方からコンサートへ訪れてもアリーナ直結のホテルがあれば、時間を気にせずともコンサートを楽しめるというわけだ。
▲新横浜プリンスホテル(左)と、新横浜プリンスペペ(右)。プリンスホテルは遠くからでもよく目立つ。
これらを運営しているのが西武鉄道を中心とする西武グループ(以下『西武』)であるが、西武は現在もホテル、ペペのほかKOSÉ新横浜スケートセンター(ネーミングライツによりKOSÉの名が付いている)および複数のオフィスビルを所有および運営しており、地盤の西武線沿線からは離れているものの、新横浜は西武グループの神奈川県内における拠点となっており、新横浜の盟主といった趣きすらある。
▲KOSÉ新横浜スケートセンター。かつてはSEIBUプリンスラビッツ(アイスホッケーチーム)の拠点でもあった。
新横浜と西武のかかわりは初代西武グループ総帥・堤康次郎氏(1889-1964)の時代に遡る。堤氏は戦後、東海道新幹線が「菊名」ではなく新横浜を通ることになったという情報を掴むと同時に、大規模な土地の買収に踏み切ったという。ただ、その手法をめぐって篠原町の住民との間にしこりが残り、それが後述する篠原口の再開発が進まない遠因にもなっているのだが、そもそも実業家としての堤氏は“箱根土地”という企業(のちの国土計画→コクド、2006年解散)にルーツがあり、不動産事業こそ西武の祖業というわけだ。堤氏は1964年10月1日の東海道新幹線開通を見ることなく1964年4月にこの世を去っているが、堤氏が築いた“新横浜の盟主”としての地位は、今も西武を支えている。
▲環状2号線と新横浜プリンス。新幹線の窓からよく見えるので、これが見えると「新横浜だ」と感じる方も多いのでは
横浜アリーナ 周辺のマンション
都市計画に翻弄された篠原口
次いで、「新横浜」の反対、“篠原口”と総称されるエリアに向かってみよう。新横浜副都心として大きく発展した北口に対し、篠原口は昭和のままの景色が広がっているといっても過言ではない。
▲篠原口ロータリー。キュービックプラザが無ければ、とてもここが同じ駅とは思えないほど。
まず、篠原口から直接乗れるのはJR横浜線しかない。新幹線や横浜市営地下鉄ブルーライン、相鉄・東急新横浜線へは連絡地下道を渡る必要があるが、同じ地下道にもかかわらず地下鉄や相鉄・東急新横浜線へはまた地上に出て、別の口から再度地下へ入り直すという煩雑さである(大豆戸町側のみ地下鉄2番出口があり、相鉄・東急へも地下鉄を介して行けるが階段しかない)。横浜線にしても、新幹線の高架と道路の陸橋に囲まれたような三角地に古びた駅舎が押し込まれているといった感じで、バリアフリーのためエレベーターはあるがエスカレーターはなく、新幹線も直接行けない。
▲JR篠原口駅舎。周囲は駐輪場とバイク置場で占められている。
駅前にしても店舗はセブンイレブンが1軒あるだけで飲食店はなく、小型スーパーが東に1軒あるほかは駐輪場・バイク置場が駅前を占めている。事実上生活インフラを北口に依存する形となっているのだが、その北口への往来も上述したように不便なままである。道路にしても、対面通行ながらセンターラインもない昔ながらの狭い道が、地下鉄「岸根公園」方面と県道12号横浜上麻生線方面へうねりながら続く。あとは殆どが2~3階建てアパートやコインパーキングであり、さすがに新幹線の駅前らしくコインパーキングの需要は高い様子。北口どころか横浜線の各停のみ停車駅でも篠原口よりはよほど栄えており、本当に同じ駅なのか…という気すらしてくる。
▲ロータリーはあるがあまり広くなく、バス路線の乗り入れもない。
なぜ篠原口が取り残されてしまったかといえば、新幹線開通以来の北口の変化があまりに急であったためだ。鶴見川沿いの低地で人口も少なかった北口は区画整理も順調に進み、“新横浜1~3丁目”の住所が設置されてからは文字通り新しい横浜として発展を遂げた。これに対し、氾濫の危険がない台地上に開けた古くからの集落である篠原口は、インフラ整備が進まぬまま北口と連動して地価が高騰し、市や各地権者の考え方が交錯して身動きが取れなくなってしまったのだ。ここまでこじれた背景には、駅開業前の西武グループによる土地買収の記憶が地元にあったから、とも言われている。
▲篠原口の街並み。低層アパートとコインパーキングが多い。
1994年には篠原口で土地区画整理事業が都市計画決定を受けた(新横浜駅南部地区土地区画整理事業)ものの具体的な動きに乏しく、2003年には土地区画整理事業が廃止されている。しかしながら都市計画決定自体は覆されなかったため、対象の約37haには建築制限がかかっており、高さ12m、3階建までを超える建築はできない。それ以降も横浜市と地元の対話は続けられ、2010年には“新たなまちづくりの考え方(案)”を公表し、「地域の合意形成を大切に、合意がとれた所から段階的に進めていきます」として、方針を転換している。
▲駅から少し離れると、横浜らしい起伏ある住宅地になる。ここは既存の集落(篠原町)。
なお、東急・相鉄新横浜線開通を前にした変化と将来については、「3.新横浜のこれから」で述べることとしたい。
「新横浜」篠原口 周辺のマンション
3.新横浜のこれから
相鉄・東急新横浜線開通で“市内ハブ”から県内ハブ”へ
2023年3月18日、東急新横浜線「日吉」―「新横浜」および相鉄新横浜線「新横浜」―「羽沢横浜国大」が開業。東急東横線・東急目黒線を介して「渋谷」「新宿三丁目」「池袋」「目黒」「大手町」「永田町」などの東京都心部や、相鉄本線・相鉄いずみ野線を介して「二俣川」「大和」「海老名」「湘南台」といった神奈川県央と「新横浜」が直接結ばれることとなり、そのインパクトは相当に大きなものとなった。
▲3月18日早朝5時40分、相鉄新横浜線からの一番列車が「新横浜」に到着。大変な熱気に包まれていた
従来、「新横浜」はJR横浜線を介して「横浜」「町田」「橋本」、地下鉄ブルーラインを介して「あざみ野」「上大岡」などとは結ばれていたものの、「本厚木」などの小田急線沿線から「新横浜」へは「町田」で、「武蔵小杉」などの東急東横線からは「菊名」でJR横浜線に乗り換える手間がかかったこと、また横浜線にしても「横浜」の1駅手前の「東神奈川」止まりが多い(この場合『東神奈川』で京浜東北線に乗り換え)など、「横浜」に比べてアクセス面でどうしても見劣りした。長らく国内最高層であった横浜ランドマークタワーをはじめ、超高層ビルが林立するみなとみらい地区に比べると、新横浜は新興オフィス街として発展したとはいえ“市内ハブ”に留まっていたために小粒だったのだ。
▲駅北口のビル街。オフィスビルが林立するが、横浜ランドマークタワーのような超高層ビルはない。
それが相鉄・東急新横浜線の開通によって直通運転が大きく拡大しただけでなく、「新横浜」へ乗り換え1回以内で辿り着けるようになった範囲も拡大した。例えば、JR相模線(『茅ヶ崎』―『橋本』)の大部分(『橋本』周辺以外)、JR南武線(『川崎』―『立川』)沿線は「新横浜」へ2回乗り換えが必要であったが、相模線は「海老名」で相鉄線に、南武線は「武蔵小杉」で東急線に乗り換えれば「新横浜」へ行けるようになり、「横浜」との格差が縮まった。つまり、県内における「新横浜」の重要性が大きく向上したのである。
▲平日の新横浜は人通りが多いが、イベントがない土休日は静かになってしまう。
このことが「新横浜」の価値を大きく高めるであろうことは疑いようがない。「新横浜」周辺でも“メイツ ザ・マークス新横浜”、“レ・ジェイド新横浜”の2棟の分譲マンションが建設中であるほか、横浜線の線路を越えた先だったため開発のペースが鈍かった新横浜1丁目を中心に、相鉄・東急新横浜線開通をにらんで2010年代以降分譲マンション供給が盛んに行われている。また、“ドレッセタワー新綱島”“ウエリス湘南台”“プラウド大和”“デュオステージ相模大塚”など、相鉄・東急新横浜線開通を好機と捉えた分譲マンション供給も活発だ。そのハブとなる「新横浜」は、「横浜」と並ぶ県内最大級のターミナル駅として、これから更に重要性が上がるのではないだろうか。
ついに動き出した篠原口再開発
ダイナミックな変化が続いた北口に対し、時流に翻弄された篠原口に変化が出てきたのは2018年。地元でも相鉄・東急新横浜線開通という変化を前に再開発の機運が高まり、地権者らによる“新横浜駅南口市街地再開発準備組合”が3月に発足。翌2019年3月には事業協力者として東急・日鉄興和不動産のJVが選定されている。東急は東急新横浜線の当事者であり、沿線価値向上のためには新横浜の価値向上に対する努力は惜しまないだろう。日鉄興和不動産も、相鉄新横浜線で隣の「羽沢横浜国大」駅前で“リビオタワー羽沢横浜国大”を開発しており、新横浜周辺の開発にかける熱意は強い。昔からJFEスチールの拠点が鶴見や川崎の臨海部にあり、新幹線の最寄りが「新横浜」という背景もあるだろうか。
▲再開発準備組合が篠原口駅前に設置したPR看板。ようやく機運が高まってきている。
地元の変化を受け、2023年2月、横浜市は“新横浜駅篠原口のまちづくり計画(案)”を公表した。これによると、約37haにおよぶ“新横浜駅南部地区土地区画整理事業”および“篠原口を東西に横断する道路計画“新横浜南口線”を廃止する代わり、篠原口駅前の3.5haに絞った“市街地再開発事業”を設定し、合わせて道路の拡幅を行う。篠原口駅前は、駅前広場(駐輪場・地下調整池)・“高層業務商業棟(1街区)”・“高層集合住宅棟(2街区)”・“中低層集合住宅棟(3街区)”に分けられ、これら街区と現状の横浜線を跨ぐ陸橋は分離されるため、都市機能の充実と通過交通の分離による安全性向上が実現する。
▲横浜市HPより。まずは篠原口駅前の再開発を重点的に進める方針が示されている。
特に“高層業務商業棟(1街区)”の敷地は北口のキュービックプラザ新横浜と比べても遜色なく、将来は新幹線を挟んで新横浜のランドマークが新たに誕生することになりそうだ。また、現在「新横浜」周辺にタワーマンションの計画はないが、“高層集合住宅棟(2街区)”は約8,700㎡の敷地を有し、少なくとも“リビオタワー羽沢横浜国大”(23階建357戸、約7,400㎡)と同等かそれ以上の規模を持つタワーマンションも期待できる。現に、再開発組合では“リビオタワー羽沢横浜国大”のモデルルーム見学会を地権者向けに行ったとのことであり、気運の醸成が進んでいる。
▲新幹線をくぐるガード(菊名245号線)。歩道が無い割に人・車とも多いため、拡幅・歩車分離が行われる。
仮に今回の篠原口再開発が完成したとして、現在の老朽化した篠原口JR駅舎や、地下鉄・東急・相鉄に繋がっておらず不便な横断地下道がそのままとは考えにくい。しかしながら、篠原口駅前以外は目に見える進展はなく、地下鉄・東急・相鉄の駅も篠原口まで地下通路を延長するかどうかなどもまだ決まっていない。横浜市としては、まず最も重要になる篠原口駅前の再開発を優先して進め、南の「岸根公園」方面や東の「菊名」方面などへ広げてゆきたい考えのようである。ただ、篠原口駅前ですら地権者全員の合意が成ったわけではないので、篠原口駅前にビルやマンションが誕生するまで、少なくとも10年以上はかかるだろう。
▲コインパーキングと低層アパートが広がる篠原口。現状はどこもこんなような景色だが、変貌は近いのかもしれない
4.「新横浜」の駅別中古価格
最後に、「新横浜」を取り巻くJR横浜線・横浜市営地下鉄ブルーライン・相鉄/東急新横浜線沿線の駅別中古価格を見てみよう。
JR横浜線
▲データ集計:(株)東京カンテイ 直近3年、各年とも1~12月。30㎡未満および事務所・店舗用住戸は除外。赤数字は上位5駅
横浜線沿線で見てみると、「新横浜」は京浜東北線に接する「東神奈川」に次いで高値を付けている。2020~2021年頃は停滞気味であったが、2022年になると相鉄・東急新横浜線開通を控えた期待感から反転上昇しており、「小机」「鴨居」「中山」といった「新横浜」の近隣駅も追随している。相鉄・東急新横浜線の開通を経た2023年以降は、「新横浜」の新築はもちろん中古も堅実な推移が期待できるのではないだろうか。
なお、同じ横浜線沿線で、リニア中央新幹線の駅が設けられる「橋本」であるが、現状は横浜線内の他駅と比べても中位に留まっている。リニア中央新幹線における「新横浜」のポジションになる駅であるが、開業時期が見通せないとはいえ現状の水準は「新横浜」に比べると割安と言えよう。“レ・ジェイドシティ橋本”など新築マンション計画も持ち上がっており、「新横浜」との差が縮まっていくのかについては、今後の推移を観察してゆきたいところだ。
横浜市営地下鉄ブルーライン(あざみ野-上大岡)
▲データ集計:(株)東京カンテイ 直近3年、各年とも1~12月。30㎡未満および事務所・店舗用住戸は除外。赤数字は上位5駅
横浜市営地下鉄ブルーラインでは、高度な都市機能が備わる横浜市中心部の「横浜」「高島町」「桜木町」「関内」および港北ニュータウンの中心である「センター南」「センター北」がトップクラス、「新横浜」は「中川」「北新横浜」「伊勢佐木長者町」などとともに次点クラスといったところだ。
特に港北ニュータウンの「センター南」「センター北」はブルーラインに加え横浜市営地下鉄グリーンラインの2路線が利用でき、ブルーラインの終点「あざみ野」で東急田園都市線、グリーンラインの終点「日吉」で東急東横線・目黒線に乗り換えられる。このため実質的に東急線3路線を利用でき、東急線を志向するニーズにも応えられることから高値が付いているものと考えられる。東急新横浜線の開通で「新横浜」は東急東横線・目黒線との直通列車が走るようになったことから、少なくとも「新横浜」も「センター南」「センター北」と同等の水準への上昇が期待できるのではないだろうか。
相鉄・東急新横浜線
▲データ集計:(株)東京カンテイ 直近3年、各年とも1~12月。30㎡未満および事務所・店舗用住戸は除外。赤数字は上位5駅
相鉄・東急新横浜線単体だと駅数が少ないため、直通列車が走る「武蔵小杉」および「二俣川」まで拡大して取り上げる。東急線側が高く、相鉄線側が割安という状況で、「新横浜」はちょうど中間あたりの水準である。とはいえ、直通の恩恵が高い「日吉」「鶴ケ峰」で平均坪単価の上昇が目立つほか、各駅とも上昇基調であることに変わりはない。
「新横浜」周辺 2020年以降のマンション
おわりに
かつて「勝負田」「蛇袋」と呼ばれ、水害も多かったような地が60年の時を経て新横浜都心”に位置付けられ、横浜市中心部と並び立つ“ツインコア”となった。かつては横浜市中心部へのアクセスポイントでしかなかったのが、徐々に単体で人が集まる街へと成長し、相鉄・東急新横浜線開通でさらに飛躍しようとしている。戦後からようやく発展がはじまり、これほどまでに著しい成長を遂げた街は首都圏広しといえど非常に珍しい。
▲鳥山川を渡る横浜線。川を境にくっきりと“新横浜”が区切られている。
ただ、新横浜が独力でここまでの成長を果たしたかと言えばそうではなく、やはり横浜市中心部の力を借りながら徐々に力を蓄えてきたと言うべきだろう。市営地下鉄ブルーライン開通によって港北ニュータウンと連結したこと、そして相鉄・東急新横浜線開通による首都圏広域アクセスをも獲得したことで、新横浜は多数の街と有機的に結ばれ、その結合が活力を生む段階に入ったのではないだろうか。
▲無味乾燥な大都会というわけでもなく、鶴見川をはじめとした自然も身近なのが新横浜の魅力だ。
母なる横浜市中心部から独り立ちし、今や横浜市中心部と対になり、支える存在になった新横浜。それはまるで、親子の成長過程にも似ている。
リニア中央新幹線の開業は、新横浜から“新幹線”という機能の一部が「橋本」へと移ることを意味する。ただ、新横浜には60~70年の先行というアドバンテージがあり、集客施設や宿泊施設というインフラも整っていることから、今の地位をそうそう失うことはないだろう。新たなライバル「橋本」の登場を新横浜がどう迎え撃つのか。「新・新横浜」は、いったいどんな姿になるのだろうか。
※特記以外の画像は2023年3月筆者撮影。マンション図書館内の画像は当社データベース登録のものを使用しています。無断転載を禁じます。
※本稿執筆にあたり、以下の記事から一部引用、および執筆の参考にしています。
(最終閲覧:2023/03/20)
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賃貸不動産経営管理士
佐伯 知彦
大学在学中より郊外を中心とする各地を訪ね歩き、地域研究に取り組む。2015年大手賃貸住宅管理会社に入社。以来、住宅業界の調査・分析に従事し、2020年東京カンテイ入社。
趣味は旅行、ご当地百貨店・スーパー・B級グルメ巡り。
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