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更新日:2023.02.27
登録日:2023.02.24
大倉山駅――今に息づく“大倉精神”のコミュニティ(横浜市港北区/東急東横線)
大倉山に“大倉山”という山はない。より正確に言えば、元々この地は“大倉山”という地名ではなく、当然そういった山もなかった。“大倉山”誕生以前、この街は“太尾町”(ふとおちょう)と云い、1926年の東急東横線開通時も“太尾駅”と云った。では、なぜこの街が“大倉山”となり、横浜市北部の住宅街として名を馳せるようになったのかといえば、“大倉精神文化研究所”がこの街の精神的支柱として在り続けていることによる。今回は、大倉山と“大倉精神文化研究所”の二人三脚ぶりを辿りつつ、今も息づく“大倉精神”について見ていくこととしよう。
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1.大倉山の歩み
“太尾町”と“大倉精神文化研究所”
現在、狭義の住所としての大倉山は、東急東横線「大倉山」が位置する東側を1丁目、鶴見川べりを7丁目としている。“鶴見川べり”が示しているように、狭義の“大倉山”の大部分は山というよりも平地であり、イメージとは裏腹に“山”感は薄い。大倉山の“山”感を覚えるのは、むしろ“大倉山”ではなく、駅北側の“大曽根”“大曽根台”、東側の“師岡町”(もろおかちょう)の辺りで、横浜市らしい丘陵に住宅街が広がる。地図を見ても、駅西側の大倉山1~7丁目や南に隣接する大豆戸町(まめどちょう)は道が整然と区画されているのに対し、大曽根・大曽根台・師岡町は細い道路が入り組んでおり、明らかに地形が異なるさまが見て取れる。そして、この大倉山1~7丁目こそ、2007~2009年にかけての住居表示実施まで“太尾町”と称した町域である。
▲町内に残る旧町名を記した住所表示(画像加工済)。“太尾”は13世紀以来の歴史を持つ
“太尾”とは、縄文海進(縄文時代には海岸線が現在よりもかなり内陸側にあり、関東平野は多くが海中であった)の頃、動物の“太い尾”のようなこんもりとした岬が海に突き出していたことによるという。現在の大倉山公園の山に登ってみると、南にみなとみらいの高層ビル群や横浜港、西に新横浜の日産スタジアムや鳥山大橋の先、遠く富士山まで見渡すことができる。南に面した山の上は、地上を建物という建物に埋め尽くされた現在でもなお、すこぶる景色が良い。そして、この富士山から横浜港までを見渡す風光明媚な丘の頂上に構えたのが、大倉山のシンボルにして精神的支柱である“横浜市大倉山記念館”、“大倉精神文化研究所”だ。“大倉山”の“大倉”とは地名でなく、この研究所および研究所の設立者である、実業家の“大倉邦彦”に由来している。
▲大倉山公園から富士山と日産スタジアムを眺める。建物に埋もれる前は更なる佳景だったことだろう
大倉邦彦は1882年佐賀藩の士族の家系に生まれ、1906年大倉洋紙店(現・新生紙パルプ商事株式会社)に入社。婿養子となり大倉姓を継ぎ、紙・パルプ商社として発展させた実業家であるばかりでなく、東洋大学学長(1937~1943)に就任するなど、教育者としての面も持った人物である。ちなみに、同性の大倉喜八郎が率いた大倉財閥(現在の大成建設やホテルオークラなど)とは全く関係ない。
▲大倉邦彦氏(横浜市大倉山記念館内の展示より)
大倉は殊に教育を重要視し、また【明治以降の日本人が伝統的文化や思想をおろそかにしたため、人心が乱れ、社会で様々な問題が起きている】ことを憂い、【日本の精神文化を復興して、世界に貢献】することを目的に、大倉50歳の1932年に“大倉精神文化研究所”(以下『大倉研』)を横濱市神奈川区太尾町(当時)に設立。【神道・仏教・儒教の三教】を中心に、【純粋学問だけでなく現実社会をも常に視野に入れ、世の人々に実際に役立つ研究所を目指した】。そして、なぜ太尾町に大倉研が建てられたのかといえば、東急を率いた五島慶太の思惑が一致したためだろう。(【】部は横浜市大倉山記念館の展示より引用)
▲横浜市大倉山記念館。かつては大倉精神文化研究所の本館だった
1926年の東横線開通後に沿線一帯の土地を買い集め、大地主となった五島は、田園調布に代表されるように鉄道沿線を主に住宅地として分譲していった一方、日吉駅前に慶應義塾大学、都立大学駅前に東京都立大学を誘致するなど、沿線に目的地となる施設をつくり、単なるベッドタウンではない双方向の人の流れを起こすことを考えていた。太尾駅北東の山は宅地分譲するには急峻であったため、仏教への信仰が厚かった五島は当初高野山真言宗の寺院を誘致し、この山を高野山に見立てての観光地化を考えていたようだが、和歌山県の総本山が大火に見舞われ、立ち消えになってしまったという。そこで目を付けたのが、大倉研の用地を探していた大倉であった。“日本の精神文化の復興”を目指し、また現実社会をも見据えた研究を考えていた大倉にとって、“日本の精神文化”の象徴たる富士山と、“現実社会”の象徴たる横浜港の二つを望むこの山は、大倉研の立地として理想に映ったことだろう。
▲大倉山公園を麓から眺める。宅地分譲するには急すぎるのがわかる。
1928年、大倉は五島からこの山1万坪を買い受け、研究所本館の建設が始まる。当時、両者は同じ1882年生まれの46歳で、随分と老成していたものと感じる。研究所の設計は辰野金吾(東京駅丸の内駅舎の設計で有名)の弟子であった長野宇平治(ながの うへいじ)によるもので、白亜の殿堂という西洋式を中心としながらも、神仏を象徴する獅子や鷲のテラコッタ像を中央に配置したり、禅道場を設けたりと、和式の要素も散りばめられており、大倉の理想が具体化されたものとなっている。1932年、大倉50歳の誕生日に大倉研はオープン。研究活動並びに一般向けの講習会や修養会(座禅会)などを開催し、【学問修行の一大殿堂】を目指すべく、精力的に活動を進めていく。研究所顧問として鈴木大拙(仏教学者)や和辻哲郎(哲学者)が就任するなど、まさに一流の学者が大倉研に集った。
▲記念館の中央塔内部。獅子と鷲の像が配置され、どれか一体と必ず目が合うようになっている。
“大倉山”の誕生
大倉研は太尾町のシンボルとして広く知られる存在となり、東急電鉄側から「太尾」を大倉研に因んだ駅名に改称したいと申し出た。大倉研はこれを快諾、「大倉研究所」「大倉文研」「研究所前」など様々な案の中から、大倉の【名称は二字で、〇〇山と呼び度い】という意向を汲み、「大倉山」に決定。研究所開設に先立つこと1か月の1932年3月、「太尾」は開通からわずか6年で「大倉山」に改称し、名実ともに大倉研と「大倉山」はこの街のシンボルとなったのだ。大倉研が立地する山が、俗に“大倉山”と呼ばれるようになったのもここからで、“大倉山”は駅と共に誕生したと言えるだろう。
▲大倉山公園の入り口。かつては研究所の私有地であった
しかし、1971年に大倉がこの世を去ると、主に大倉個人の寄付で成り立っていた大倉研の経営は厳しいものとなり、建物や庭の木立が次第に荒廃していったという。この状況を打開すべく、1981年に研究所は“横浜市大倉山記念館”として市へ寄贈、市民活動の拠点となるべく集会室として改修され、大倉研は建物の一部を使用するという形になった。同時期に東急が大倉研の隣接地に所有していた梅林も市へ売却され、研究所の土地と合わせて“大倉山公園”として市民へ解放された。
▲大倉精神文化研究所附属図書館。記念館内にあり、開館中であれば誰でも利用できる。
「大倉山」への改称から80年あまり、駅名は「大倉山」だが地名は“太尾町”と、駅名と地名が一致しない状態が続いていたが、住居表示を実施するにあたり、横浜市は住民参加による公聴会を経て、“太尾町”から“大倉山”への改称を提案。住民の間でも賛否が分かれ、賛成65%、反対30%という投票結果を以て、歴史ある“太尾町”は2007~2009年にかけて“大倉山1~7丁目”に改められることとなった。
▲旧町名“太尾町”を伝える掲示。駅前にひっそりと存在している
ともすれば普通の地名のようにも感じる「大倉山」だが、その背景にはこの街のシンボルとしての大倉研の立地、そして大倉研が地元へ多大な貢献をし、良い関係を築いてきたという厚い背景がある。ミナト横浜と富士山を見渡す白亜の殿堂・横浜市大倉山記念館は、今日も変わらぬ威風堂々とした佇まいで、この街の暮らしと共に在り続けている。
▲90年前から変わらない記念館の佇まいは、この街のシンボルであり続けている。
「大倉山」周辺 2010年代以降のマンション紹介
2.大倉山を歩く
大倉山の玄関口たる東急東横線「大倉山」は各停のみ停車ではあるが、一部を除いて「渋谷」方面は「自由が丘」(ラッシュ時は『日吉』)、「横浜」方面は隣の「菊名」で特急・急行に乗り換えられるので、さほど不便さを感じることはない。東横線は「渋谷」から東京メトロ副都心線、「横浜」からみなとみらい線に直通し、「新宿三丁目」や「池袋」、「みなとみらい」や「元町・中華街」へも乗り換えなしでアクセスできるほか、隣の「菊名」でJR横浜線に乗り換えれば「新横浜」へは1駅で、東海道新幹線の利用も便利。各停駅と侮るなかれ、鉄道利用は相当に便利と言えよう。
▲大倉山駅ホーム。駅北側は切り通しとなっている。
駅改札口は高架下の1か所で、目の前に横浜市営バスの乗り場が設けられており、高架下なので雨に濡れることなく乗り換えられる。「新横浜」や「鶴見」、IKEA港北(『新開橋』バス停)、ららぽーと横浜といった大型商業施設へのバスが出ており、乗り換えも便利なので、日中でも常にバスを待つ人の姿が見られる。高架下には東急ストア大倉山店が立地し、バスや電車を待つついでの買い物も便利だ。
▲大倉山駅舎。改札口は向かって左手。駅直下にバス停が設けられ、乗り換えは便利。
記念館坂――大倉山公園の梅林と“東横神社”
横浜市大倉山記念館へは、駅西側からすぐ始まる坂道“記念館坂”を登っていく。最初こそ高架下だが、登っていくうちに駅を見下ろす高さになり、左へ折れてまもなく大倉山公園。木立の間からみなとみらいや新横浜、果ては富士山を見渡すことができ、これは大倉や五島が眺めた頃と変わらないはずだ。そして、大倉山公園の木立を進んでいったところに、白亜の殿堂・横浜市大倉山記念館が凛として建っている。
▲緑豊かな大倉山公園を登っていくと、石段の先に記念館が建っている。
白を基調とした外観に、エントランスを象徴する丸い石柱、中央の塔を中心に“東館”・“西館”が左右対称に広がる堂々とした威容は、まさに白亜の殿堂と呼ぶに相応しい。東館1階には大倉精神文化研究所が残り、書庫は附属図書館として一般にも開放されている。その他は集会室として様々な市民活動に使用されており、訪問時も音楽サークルやお茶会など、様々な用途に盛んに活用されていた。築90年ながら古びた印象はなく、この記念館がこの街に与える影響の大きさを改めて感じ入った次第である。
▲内部も実に堂々としている。まるで議事堂か教会のよう
記念館の先に大倉山公園の梅林が広がる。先述の通りかつては東急の所有で、沿線の観光開発の一環として整備されたのち、大倉山公園のオープンに合わせ横浜市へ売却されたものだ。その名残として、“大倉山”の最奥部に“東横神社”が建っている。ここだけは現在も東急が所有しており、大倉研オープンの7年後、1939年に五島自ら伊勢神宮より勧請し、渋沢栄一翁はじめ東横線建設および東急の発展に貢献した功労者の霊を慰めるために造営したもので、1959年の五島没後は自らも合祀されている。そのため、東急のきわめてプライベートな空間であり、一般の参拝はできないばかりでなく、社内ですらその存在が積極的には公表されていないという。社殿や拝殿は“大倉山”の木立に覆われてその姿を窺うことはできず、門の外から一の鳥居を遥拝するのがやっとである。
▲訪問時点(2023年1月)では、早咲きの梅が少し咲いていた。満開ともなれば多くの人が訪れよう
なぜ“東急神社”でないのかといえば、当時の社名が“東京横浜電鉄”であったからだろう。1927年の全通時に“東横線”の名が付き、1934年渋谷に“東横百貨店”がオープンするなど、当時は“東急”でなく“東横”が社を代表する通り名であったので、神社にもこの名が用いられたと考えられる(“東京急行電鉄”への改称は1942年)。五島は晩年「東横線が我々の祖業である、この線が滞りなく走っていれば東急の事業は安泰だ」と述べたというが、後年多くの鉄道会社を合併し路線網が広がってからも、東横線は東急の本線格であり続けた。その心の拠り所として大倉山が選ばれたのは、走り始めたばかりの東横線沿線に大倉を招いて研究所を誘致し、研究所開所を祝う集いにも五島自ら参列し、この街の基礎を共に築いたという思い出が五島にあったからではないだろうか。
▲知られざるスポット“東横神社”。一般の参拝はできない
メインストリート“大倉山エルム通り商店街”
記念館の周りは急峻な地形であるためにマンションは少なく、中心となるのは西側・鶴見川沿いの平坦地(大倉山2~7丁目)か、東側の県道2号(綱島街道)周辺の丘陵地(大曽根・大曽根台・師岡町)となる。記念館の次は、駅西側“大倉山エルム通り商店街”方面へ進んでいこう。
▲大倉山エルム通り商店街。ギリシャ風の建築で整えられた景観が美しい
大倉山のメインストリートであるエルム通りの建物は白を基調とし、丸柱などを取り入れたギリシャ風の意匠にほぼ統一されており(ギリシャのアテネ市と姉妹都市提携を結んでいる)、この街のシンボルである記念館のイメージに合わせられている。電柱も地中化され、その名の通りエルム(楡=ニレの英名)の街路樹が並ぶ街並みは、記念館と共にこの街の良好なイメージを作り上げている。多種多様な店舗が軒を連ねるが、パンやケーキ、自然食品など、ある種のゆとりを感じさせる店が多いあたり、いかにも東横線沿線らしい上品さを醸し出している。
▲電柱や電線がないため、開放的な雰囲気もまた魅力的
開発の年代が早い駅周辺は戸建てが多く、マンションはエルム通りが途切れる「大倉山」徒歩5分(駅から一つ目のバス停『大綱中学校前』辺り)~15分ほどのエリアにかけて多くなる。バス通りはそのまま続き、鶴見川を“新羽橋”(にっぱばし)で渡り、鶴見川対岸の横浜市営地下鉄ブルーライン「新羽」へ至る。「大倉山」徒歩15分を超えるあたりになると、今度は「新羽」徒歩10分以内程度になってくるため、鶴見川近くになってもマンションは途切れない。
▲エルム通りが途切れても商店街が続いている。
バス通りは「太尾堤」バス停近くで鶴見川に沿う“太尾新道”と交差するが、この“太尾新道”は豊かな緑道が併設され、歩いていて心地よい。“太尾新道”沿いには市立太尾中学校や太尾公園など、旧町名“太尾”を冠する施設が連なるが、敢えて“太尾”を地図に残そうとしたのだろうか。そのまま南へ進むと新横浜へ入っていき、横浜アリーナのすぐ脇に至る。いわゆる大倉山エリアは太尾新道が鶴見川に最も近づく、鶴見川が90度西から北へと流れを変えるあたりまで。この辺りは川沿いの平坦地で、横浜市郊外にありがちな急坂に行く手を阻まれることはないのはプラスだろう。
▲鶴見川を渡る新羽橋。右が大倉山、左が新羽。新羽側は工場が多い。
“大倉山エルム通り”周辺のマンション紹介
“師岡熊野神社”と綱島街道
駅東側へは“レモンロード商店街”が続くが、この商店街が県道2号(綱島街道)に突き当たる場所に港北区役所が構える。区役所は1939年の成立以来菊名にあったが(現:横浜市菊名地区センター・港北図書館)、1977年に「大倉山」東方、徒歩6分ほどの現在地へ移転している。区役所が接する大豆戸交差点は、綱島街道と環状2号線の交点にあたり、周辺最大の道路交通の要衝になっている。東海道新幹線が停車する新横浜へも環状2号線一本で結ばれる立地であり、区役所移転1年前の1976年から“ひかり”停車駅に昇格していることから、新横浜の発展を見越した移転だったのだろう。この環状2号線辺りを境に、概ね北は大倉山、南は菊名というように分かれる。
▲港北区役所。港北区は人口36万人を数え、日本の政令指定都市の行政区のうち最も人口が多い。
概ね綱島街道以東の環状2号線沿いが師岡町にあたる。その師岡町のへそとなっているのが、太尾町はじめ周辺の氏神であり、古くから関東における熊野信仰の根拠地として知られる師岡熊野神社だ。鳥居下には“いの池”と呼ばれる池がある他、境内の“のの池”には今もこんこんと清水が湧く。かつては北東に“ちの池”と呼ばれた溜池があり(※)、3つ合わせて“い・の・ちの池”と呼ばれていたというから、恵みをもたらす水への先人の感謝と崇敬が感じられよう。師岡町にはほかにも“横溝屋敷”(横浜市農村生活館。かつての庄屋宅が保存されている)など、都市化の波が及ぶ前の姿を残すものが多い。
(※隣接する綱島温泉の泉質にも似た赤茶色の水が湧いたという。ただ、さすがに縁起が悪かったのか、“ちの池”のみ埋め立てられて現存しない。現:大曽根第二公園。)
▲師岡熊野神社。鳥居の手前に“いの池”、境内に“のの池”が湧く。
そして「大倉山」北側、綱島街道以西が“大曽根”、記念館に隣接する台地を“大曽根台”という。鶴見川南岸の平坦地が多く、北端では綱島街道が“大綱橋”を渡り、程なく隣の「綱島」に至ることから、大綱橋近くでは綱島を名乗るマンションも多い。綱島街道の歴史もまた古く、原型はなんと“いざ鎌倉”の時代に遡る鎌倉街道下ノ道(鎌倉~松戸)に認められるというが、ここから先は大倉山から逸脱してしまうので、綱島の回にて改めて取り上げることとしたい。「大倉山」から北側へ大曽根商店街が伸びているが、エルム通りやレモンロードに比べて道幅は狭く、駅と住宅地を結ぶ商店街といった風情だ。
▲大曽根台の住宅地。かなりの傾斜地であり、道路が階段になっている場所も多い。
綱島街道周辺のマンション紹介
3.大倉山のこれから
大倉山は住宅街としてはほぼ成熟しており、2023年3月開業の東急新横浜線も「新綱島」の次が「新横浜」となってしまい「大倉山」は素通りしてしまうが、それでも東横線の運行形態が大きく変化するため、「大倉山」も間接的に影響は受けるだろう。その芽はすでに出てきている。
▲港北区役所前の綱島街道。大豆戸交差点を前に、車の流れが淀んでいる。
環状2号線周辺は幹線道路沿いかつ第三京浜道路港北ICが近いため、クルマでの来客を主とした店舗も多かった。ただ、大豆戸交差点に接していたガソリンスタンドESSOが「ザ・パークハウス大倉山」として生まれ変わった(2022年9月竣工)ほか、交差点南側の“オリンピック大倉山店”が敷地を半分ほどに縮小し、跡地が「プレミスト大倉山」として生まれ変わることになった(2024年8月竣工予定)。
▲ザ・パークハウス大倉山。右(東側)は綱島街道。
このように、従来は住宅でなかった場所へもマンションが進出するようになっており、交通利便性の高さと緑、歴史、そして大倉研に代表される知的なイメージにも彩られ、エリア全体としての根強い人気を感じ取ることができる。2020年代以降も大倉山エリアではマンションの供給がほぼ途切れなく続いており、新横浜や綱島の発展と歩調を合わせ、今後も堅実に歩んでいくことが期待されよう。
▲綱島街道沿いで建設中の「プレミスト大倉山」。住所は大豆戸町となり、「大倉山」徒歩9分
「大倉山」周辺 2020年代以降のマンション紹介
かつて大倉邦彦が【日本の精神文化を復興】する根拠地として“太尾町”を選び、五島慶太が“大倉山”へと育て、大倉研と大倉山の街は二人三脚で歩んできた。大倉研の建物は横浜市大倉山記念館となったが、大倉研自体の活動が止まったわけではなく、今なお附属図書館には毎月新着図書が入荷するし、集会室では多様な市民活動が日々繰り広げられている。訪問時、輪になって楽器を演奏する中高年サークルの皆さんの笑顔が印象的であった。春には大倉山公園の梅林へ二万人もの観梅客が訪れ、東横線沿線に残された貴重な緑のオアシスとして、都市生活者の五感を研ぎ澄ませ、その心を癒している。
▲大倉山公園梅林。「大倉山観梅会」は春の風物詩となっている
「大倉山」が駅名、そして地名として受け入れられたのは、大倉個人および大倉研の努力もさることながら「大倉研究所」などのように、特定の施設名を駅名に入れなかったことも大きい。仮に「大倉研究所駅」であったらば、本館が横浜市に寄贈され記念館に変わった時点で駅名が再度変わっていたかもしれない。大倉の【名称は二字で、〇〇山と呼び度い】という意向はまさに慧眼であったし、地名として受け入れられるほどに研究所が街に馴染んでくれれば…という思惑もあったのではないだろうか。その願いは80年の時を経て、“大倉山”は“太尾町”に取って代わるまでになった。
▲大倉山駅改札口。「研究所前」にしなかったことが、この名が地元に受け入れられた要因だろう。
記念館を中心とした文化・芸術振興、梅林を中心とした自然への親しみ、エルム通りに代表される都市の活気を併せ持った大倉山の街は、まさに大倉邦彦が理想とした“精神文化の復興”を象徴し、五島慶太が理想とした“田園都市”の在り方に近いのではないだろうか。大倉邦彦の考え方に共感し、自らの生活に取り入れ、この街の暮らしを楽しむ住民の中に、“大倉精神”は脈々と受け継がれている。
▲大倉山ヒルタウン。静かな高台上は、大倉山の中でも特に良質な住宅地を構成している。
※特記以外の画像は筆者撮影。マンション図書館内の画像は当社データベース登録のものを使用しています。無断転載を禁じます。
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賃貸不動産経営管理士
佐伯 知彦
大学在学中より郊外を中心とする各地を訪ね歩き、地域研究に取り組む。2015年大手賃貸住宅管理会社に入社。以来、住宅業界の調査・分析に従事し、2020年東京カンテイ入社。
趣味は旅行、ご当地百貨店・スーパー・B級グルメ巡り。
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