暮らしのヒント2021/1/23

先日、本サイトの編集部から、「コロナは見えない鬼、巷では映画『鬼滅の刃』が大当、もうすぐ節分なので、鬼がらみで何か」と提案がある。僕は流行のそれには全く疎いが、「福は内、鬼は外」。と唱えながら、鬼の面をつけた多くはその家の主人!に子どもや妻らが豆をまき追い掛け回す姿は、ほのぼのと愛らしいものである。ではなぜ立春の前日に鬼が登場し、また追い払う道具として豆が使われるようになったのだろう。

 

節分とはその名のとおり、一年を四つの季節に分けたときの「分け目」、従って立春、立夏、立秋、立冬と年4回あるのだが、立春が特別視されたのは、昔はお正月と立春が接近していたので「年越し」とか「大年、歳の夜」つまり前日は大晦日に相当していたわけで、明日から新しい年の始まる境目とみたからだ。

 

時の裂け目には死者(祖霊)が来訪するだけではなく、鬼もやってくる晩であった。そこで邪気や悪気を持ってくる鬼を祓う信仰から生れたのが、豆まきの習慣である。芽を出す豆は生命力の象徴で、また豆をまく姿は農作業にも通じ、マメは「魔目」、鬼の目を打つ意味も込められているという。豆まきの豆を福豆といい、煎ったものを使う。豆を拾って洗い年齢の数だけ食べると、一年無病息災で過ごせるなど諸説ある。また、突刺性がある毒草柊の枝に、悪臭を放つという焼いた鰯の頭に刺したものを玄関に掲げ、鬼の侵入を防ぐ信仰が平安時代におこる。ではなぜ鬼で、また鬼とは何であろうか。

 

「白洲家としきたり」(小学館)

 

節分に鬼が定着したのは、「鬼やらい」とか「鬼走り」などと言った宮中で行われていた「追儺」の行事が、人々の願いに応じて民間にくだり、寺社や自宅で行われるようになったとする説が有力である。鬼の語源は「隠」で、隠れた裏のモノドモである。大きな意味では、人間のコントロールを超えた大きなチカラ、例えるなら現代のコロナであり、地震や津波といった自然災害など、人智を超えた存在を鬼と見立てたのだ。

 

また、権力に取り入らない社会の脱落者、山住みの山賊や海賊などの人間もまた鬼に例えられた。ユニークなのは、災いを祓うために活躍したのもまた「鬼」だったことである。平安時代に活躍した陰陽道安倍晴明が使役した式神は鬼神であり、修験者の元祖である役行者は前鬼、後鬼を従え鬼と近しい存在になっていく。隠れん坊や缶蹴り、鬼ごっこ然り鬼は仮想の敵であり、また守り神とした地方もある。わが家は九鬼家という大名の家臣であったが、九鬼家の豆まきは、「福は内、鬼も内」と唱えたそうである。

 

 

こうした習俗は、現代の生活からは無駄で不合理な行為かもしれないが、コロナ禍の生活不安と季節の変わり目による体力不足は、多くの幽霊物語『今昔物語』に描かれた平安時代の、神経過敏によって生み出された病的な錯覚や幻想と何処か似ている。疫病に対してあまり過剰にならず、先人の知恵にならい気分転換、春を喜び改まった気分で豆まきをしてみてはどうだろうか。

ただ、今年の節分は一日早い2月2日、124年ぶりの珍しさだというのでお気を付けあれ。

 

 

 

 

白洲信哉(しらすしんや) 文筆家/アートプロデューサー

1965年東京都生まれ。細川護煕元首相の公設秘書を経て、執筆活動に入る。その一方、広く日本文化の普及につとめ、書籍編集、デザイン、展覧会などの文化イベントの制作に携わる。父方の祖父母は、白洲次郎・正子。母方の祖父は文芸評論家の小林秀雄。主な編著書に『骨董あそび』(文藝春秋)、『白洲次郎の青春』(幻冬社)『天才青山二郎の眼』『小林秀雄 美と出会う旅』(新潮社)『白洲家としきたり』(小学館)『かたじけなさに涙こぼるる』(世界文化社)『旅する舌ごころ』(誠文堂新光社)他多数。最新刊に『美を見極める力』(光文社新書)。

暮らしのヒント についての記事

もっと見る